FC2ブログ

甲州恵林寺の焼き討ち

2009年07月12日 00:04

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 22:31:24 ID:o7N+l+SE
甲州恵林寺の焼き討ち①

天正10年4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に武田の残党が相当多く
恵林寺に逃げ込んだとの噂を聞いた
織田信忠は、さっそくこの恵林寺を探索させることにした。恵林寺は古くから
武田信玄の深く帰依した菩提寺であって三百年の伝統を誇る古刹である。

ここの住職 快川和尚は稀に見る傑僧であった。この快川和尚は以前
岐阜の崇福寺の住職であったが、織田信長と意見が合わず、武田信玄がその才覚を見込んで
わざわざ恵林寺へ招請したのであって、岐阜長良の崇福寺には織田信長の墓と共に
快川和尚の肖像や遺品が残っている。

織田信忠はその部下の関小十郎左衛門、織田九朗次郎、長谷川丹後、赤座七左衛門の四人に命じて
寺内の探索に当たらせた。さて、この関小十郎左衛門。あの森家とは姻戚関係にあり、
妻は森可成の娘である。森一門の中でも勇猛果敢な豪傑であったと伝えられている。
(その後、小十郎左衛門の子 関民部成次と森忠政の娘 おごうの間にできた長継が
津山藩森家二代目藩主となる。)

関小十郎左衛門以下四人の武将は多数の部下を引き連れて恵林寺へ押しかけ、
「武田の残党、佐々木次郎、長坂長閑斉、その他のものがこの寺内へ逃げ込んだと聞いたが、
その者たちを寺から出してもらいたい。」と静かに要求した。

快川和尚が出てきて、「寺を頼って来た者には、御仏の加護をしてやるのが僧たる者の勤めである。
まして窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さずというではないか、野暮なことは言わないで、ここは
静かにお引取り願いたい。」
「何をつべこべいうか、さっさとここへ出せ!」
「仏門に入った者はそう簡単にだせぬ。」
こんなやりとりの間に、佐々木その他の者をこっそり裏から逃がしてしまった。

小十郎左衛門は武田の残党が多数入り込んでいることは、もはや間違いないとみたが、相手は
世に名高い高僧なので手荒なこともできず、この模様を主人信忠に報告してその指示を仰いだ。
「構わぬから強引に入って立ち調べよ」と勝ちに乗った信忠葉強気である。
快川和尚も一代の傑物である。一山を取りまとめて評判もよく、それに前年には朝廷から、
円常国師の称号をもらっているほどの高僧である。信忠は重ねて言った。
「調べてみて万が一、一人も出てこないようなら恵林寺を焼き払ってもかまわぬぞ!」と。

関小十郎左衛門ら四人の者は恵林寺を取り囲み、寺へ踏み込んでくまなく探したが一人も出てこない。
寺内には快川和尚をはじめ、高僧・役僧など十人とその他、学僧・小僧・老人など合わせて
五十余人の者がいたが、これらをすべて山門に集めて再び手分けして本堂、庫裏、物置など
くまなくしらべたが一人も見つからない。

「どこへ隠した!?」
「おのれ、逃がしたな!」
「さあ、どこへ逃がしたか、誰と誰がいたか白状しろ。」
と、口々に大声でがなり立てたが誰も黙って返事をしない。
「よろしい、誰も白状せぬなら全部山門に追い上げろ。」
快川和尚はじめ、高僧・役僧・若僧・小僧など全部の者が山門へ上がったところで、
「火をつけて焼き殺せ!」
と、激昂して山門の周囲に枯れ草と枯れ木を積み上げて火を放った。

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 22:35:25 ID:o7N+l+SE
甲州恵林寺の焼き討ち②

黒煙もうもうと立ち上がる中で、快川和尚は法衣を纏い静かに正座して読経を続け、泰然として頌を唱う。
「安禅心不用、滅却心頭火自涼」と。
この「心頭を滅却すれば火自ら涼し」は非常に有名な句である。

快川和尚は火が身近に迫って来ても少しも動ぜず火達磨になって立派に焼け死んだ。
その他の役僧や学僧たちも、みな大悟徹底した僧であるので、少しも騒がず快川和尚に従って
何れも壮烈な死を遂げた。快川和尚の兄の子の朴蔵主はまだ子供なので、暑さに堪え切れず、
煙の中から逃れようとして、山門の左右の桜の木にとびつく。これを見て、若僧・小僧な
どもわれ先に桜の木にとびつき逃れようとする。武者共は槍を突きつけて取り囲み、片端から
突き殺してしまった。

しかし、朴蔵主だけはさすがに可愛そうに思ったのか、殺すのをやめて助けてやった。この朴蔵主は
後に淳岩和尚と号し、岐阜大竜寺中興の祖となりさらに恵林寺の跡を継ぐ名僧となった。

さて、寺の始末が一応片付いたので、検視の武士たちはお寺から十町ばかり離れたところで、
今後の対応を協議している時、その前を陸蔵主という僧が通りかかった。
関小十郎左衛門は、これを呼び止めて、「おい坊主、どこへ行く?」と尋ねると、陸蔵主は
「托鉢に出ていて、今から恵林寺へ帰るところだ。」と平然として答えた。
「しばらく待て。お寺は先刻焼け落ちて、快川和尚初め仲間の坊主どもはみな焼け死んだぞ。
おまえもどうせ百までは生きれんぞ。」とその僧の背中をぽんぽんと叩いて話した。

この僧は後に作州津山の初代藩主森忠政の招きに応じて、津山東海寺雲竜寺(後の本源寺)の
開山海晏和尚となった名僧である。しかし、慶長10年5月3日森忠政の妻 お岩様が32才で
病死された際、その引導を渡してもらうため京都紫野大徳寺の王室和尚を招請したところ、
「いくら大徳寺の格式が高いとはいえ、地元の雲竜寺和尚を出し抜いて引導を渡してもらうとは
不都合だ」として、あっさり葬儀場から立退き、寺を捨てて越前法泉寺へ。さらに虎哉禅師の推薦により
松島青龍山瑞巌円福禅寺、すなわち瑞巌寺へ第96代住持として招聘された。

恵林寺焼き討ちの約二ヵ月後、焼き討ちの命を下した織田信忠は本能寺の変において親子共々、
雄々しく討ち死にを遂げ、関小十郎左衛門もまた長久手の戦いで森長可と共に壮烈な戦死を遂げた。
このように、生き残りの僧は名僧となり世の尊敬をあつめ益々栄えたが、焼き討ちに関係した
武将たちはいずれも年若くしてこの世から消え去った。

人の運命の奇しき巡り会わせに今更ながら感慨深いものがある・・・。

・・・のではあるのだが、関小十郎左衛門が森一門も聞いて
「やっぱり、ヒャッハー体質だったのかしらん」とか、「おめぇの帰る寺ねぇから~ヒャッハー!」とか
妄想してる俺は心が腐ってるのではないかと心配になる今日この頃。





258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 22:45:55 ID:0e+Fk+yS
この時代坊主も肝据わってるよな
しかしその後の運命は縁というかなんというか不思議なもんだな

259 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/07/10(金) 22:50:13 ID:hHhseL9G
>>256>>257
> ・・・のではあるのだが、関小十郎左衛門が森一門も聞いて
> 「やっぱり、ヒャッハー体質だったのかしらん」とか、「おめぇの帰る寺ねぇから~ヒャッハー!」とか
> 妄想してる俺は心が腐ってるのではないかと心配になる今日この頃。

おれも、森一門で、後に津山藩2代目藩主のおじいちゃんと聞いて、ヒャッハー!体質と思った。

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 23:11:12 ID:oEQzV/vF
でも確か恵林寺って信長を恐れて野晒しになっていた
首のない勝頼親子と北条夫人の遺体を放置したんじゃなかったっけ
見るに見かねた放浪のお坊さんがようやく収めて葬ってあげたってどっかで読んだぞ

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 23:22:02 ID:AmflQ7N8
何がでもなのか良く分からないが、
勝頼没後20日ちょっとで焼き討ちにされた恵林寺に、
そこまで完璧を求めるのはさすが悪い話スレと言わざるを得ない


スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    徳川実紀ですな。>遺体を放置
    そんで家康が弔ってやったら甲斐の人たちはみな神君を慕い・・・という話なので、信憑性はあれです。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/2419-eb5f3374
この記事へのトラックバック