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「今弁慶」と呼ばれた男 木脇祐秀

2009年07月18日 00:09

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/17(金) 16:31:00 ID:XBnYAgp/
「今弁慶」と呼ばれた男 木脇祐秀

島津家は一族や一門重臣の武将が優秀でどうしても目立ってしまうので
家臣の中馬大蔵らマイナー部将は埋もれがちなのが玉にキズ。

木脇祐秀(1577~1619)、身の丈は八尺以上の大男であったと言い、
一説には身長2メートル超えていたとも伝わる。
兄の戦死後、家督を継ぎ若くから義弘の供回りの腹心として仕え、
その風貌と武勇から「今弁慶」の異名をとった剛の者であった。

文禄・慶長の役では義弘に従って奮戦。
膂力に優れ敵兵を軽々と持ち上げ風車のように振り回したと言う。まさに無双状態。
露梁海戦では舟から舟へ八艘BEATの大活躍!だったが、瀕死の重傷を負い一時心肺停止に。

ここで山田有信を蘇生させたりと実績と安心、もとい医学の心得のある義弘、
「胸まわりの胴体を長い布できつく縛り、両側から肋骨が折れるぐらいの勢いで押し絞り上げ
肺に溜まった血を吐き出させる」 という荒療治で祐秀は奇跡的に蘇生。
「この時の恩は生涯忘れない」と誓った祐秀は朝鮮での奮闘振りが評価され義弘より長刀を賜る。

ついで舞台は関ヶ原。
敵中突破の退却戦では祐秀は長刀を馬上で奮い、道を切り開く。一刀で5、6人を薙いだとも。
交代で殿軍も務め、途中遅れて追ってきた右備えの山田有栄とも合流。喜んだ祐秀、
「配下の兵をお貸りしたい。義弘公のお側が無人なので有栄殿は殿のお側をお守り頂きたい」
と述べ、少ない軍勢に有栄の手勢も加え追いすがる敵を打ち退けた。

なおも逃亡中の義弘一行、信楽にて落人狩り500人以上に宿所を囲まれる。
義弘の周りには50人ほどしかいない。絶体絶命のピンチであったが、
先行して偵察に出ていた祐秀らが引き返してきたところ包囲されているのを発見、
機を見て背後から急襲し囲みを破り主従一同なんとか切り抜けることに成功。

そして最後まで義弘を守り抜き薩摩に帰国。
死地を掻い潜り供に帰国を果たした功績により少ないながらも義弘より50石を加増された。

1619年に主君・義弘が大往生を遂げると、家久(忠恒)が殉死を固く禁じていたにも関わらず
祐秀ら13人が後を追い腹を切って果てた。激怒した家久は命令に背いた13人の家禄を尽く没収!
…したが、13年後の1632年に殉死した全員の家財を復し再興させた。

祐秀の墓は加治木町にあり、殉死した13人の供養の為の地蔵塔が
義弘の菩提寺である妙円寺(現在の徳重神社)に建てられたと言う。

家久にも優しいところはあるよ、というちょっぴりいい話で〆




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/17(金) 17:38:13 ID:9ms2RC+C
家久は色々言われるけど、統治システムの変革期である程度
強圧的に上からやらないとだめってのもあったと思うけどね
13回忌で恩赦だし、予定していたんじゃないかなあ

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/17(金) 18:44:46 ID:WGVy5ikj
>>536
まあ家久(悪)は自分が死んだ時にも九人殉死者出してるし、予定ではあったのかも
家久(悪)が批判されるのは、やり方があくど過ぎるせいもあるだろうねえ
普通なら取り潰されてもおかしくないほどの粛清の嵐だし
取り潰されなかったのは薩摩の立地が功を奏したのかな

しかし向こうのスレでも家久(悪)が褒められてて何か奇妙な流れw

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/17(金) 18:47:58 ID:mBkUevZc
・・・13年の間にもしポックリ自分が死んでたらどうする気だったんだろうなw

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/17(金) 19:02:29 ID:38uuqtC7
まぁそん時は運が悪かったと


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コメント

  1. ひろみ | URL | -

    木脇祐秀の子孫です。
    簡潔なご説明を有難うございます。
    今年は、祐秀が殉死して390年になります。

    平成の現在、先行きが不透明ですが、先達の勇ましい生きざまに、勇気をもらっています。


  2. 木脇祐秀 本系末裔 ひろみ | URL | -

    木脇祐秀の子孫です。
    7月にもコメントしましたが、
    再度、コメントをさせてください。

    今年9月には、2度鹿児島の加治木町にある木脇祐秀の墓参りをしました。
    1回目は別の支流の木脇家方です。1
    2回目は鹿児島大学の先生とです。

    「椿窓寺」という小さな墓地です。
    そこに祐秀が眠っております。
    また、殉死した実窓川原跡にも碑が残っております。加治木町は静かな中にも歴史を重んじていることが、人に会ったり、歩いたりしていて感じました。

    10月に再訪鹿し、妙円寺詣りに城下士の末裔の学舎連合の方々と参加しました。
    妙円寺詣りで伊集院町は有名ですが、加治木町は島津義弘公が亡くなるまでの晩年を、共に過し、また木脇祐秀他の家臣が殉死までの最後の瞬間まで生活した場所です。
    加治木町には「加治木饅頭」というものがあります。島津義弘公が姶良町の平松城から加治木に城を移す前に、欄干橋を造る際に、お茶うけに出されたことから始まるそうです。現在はいくつもの店舗がありますが、私は創業文政6年からの「美坂饅頭屋」を買い求め、祐秀の墓に備え、献茶して読経し本家末裔として供養しました。

    加治木町の墓は同町の文化財課が管理してくださっておりますが、なにぶん390年も風雨にさらされ、これから先もそのままの姿を維持するのは難しいと思います。
    このサイト、コメントをお読みくださり、ご興味ある方は、是非、同地をお尋ねになってみてください。
    ただ、行き方が複雑ですので、予め加治木町の役場にお尋ねになったほうがよいと思います。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    まじかよw
    子孫は本物っぽいな

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