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木崎原の戦いと加久藤城の女中

2009年07月19日 00:10

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/18(土) 15:47:41 ID:RNlVmCpM
>>598
じゃあその時の話でも書くか・・・

木崎原の戦いが起こる前、伊東家は義弘の飯野城を落とすべく度々真幸院へ
進出していた。
木崎原の戦いの五ヶ月前も伊東軍は真幸院へと進出し民家を焼くなど
挑発行為をしていたのであるが その日の晩、一人の女が迷い込んできた。
伊東軍これを連れてきて話を聞くと、女は飯野城の西、義弘の妻子が住まう
加久藤城の女中であるという。
女中はとある武士と不義密通を重ねていたのであるが遂に事が露呈してしまい、
いよいよ明日罰せられることになっていた。
しかし、義弘の妻である実相院がこれを哀れに思い、自身の住まう部屋に
通じる「鑰掛口」よりそっと逃がしてくれたという。
女中は相良領へと逃げようと思ったが加久藤の峠は山深い上に険しく、
心細くなってこの伊東軍の陣にやってきたという。
伊東軍はこの女中を不憫に思い、島津の防衛拠点である三ツ山城へと
連れて行ってそこの女中として雇った。そして女中から島津家の内情を
問いただしたのである。
女中曰く、加久藤城には義弘の妻子ら50名ほどの兵しかおらず、
また自身が逃げてきた鑰掛口は、攻められると脆いと教えた。
伊東軍はこれを信じ元亀3年5月4日の未明、飯野城の先にある加久藤城の
鑰掛口を攻めるべく進軍した。しかしそこは狭い隘路で、また鑰掛口は
絶壁でいくら攻撃してもビクともしなかった。
実は鑰掛口とは、その名の通り鉤を掛けて登らなくては通れないというほどの
入口だったのである。
そしてこの女中、実は義弘が遣わした間者だった。
まんまと騙された伊東軍は疲労困憊、已む無く兵を引いた先で暑さから水浴びをして
沢山の将兵が討たれたのは史実の通り。





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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    管理人様、これのカテゴリが「東北・北海道」になってますが「島津義弘」かと。

  2. まとめ管理人 | URL | -

    Re: タイトルなし

    ご指摘ありがとうございますー。修正しました!

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