679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 07:51:49 ID:W8CUIJ8N
聖徳寺は何処に
聖徳寺は寛喜年間(1229~32年)、尾張国葉栗郡大浦(現岐阜県羽島市)で創建された。
開基は信濃国出身の元武士で親鸞聖人の直弟子となった小笠原長顕、法名閑善。
山号は七寶山といって、親鸞から七つの寺宝を授けられたことに由来するという。
浄土真宗においては本願寺の直参と格付けられた有力寺院である。
その後、木曽川の洪水によって寺堂が流出したため尾張国中島郡苅安賀(現愛知県一宮市)に
移転。
さらに再び大浦へ戻ったが、永正14(1517)年、中島郡富田へと移った。
この富田は、先に「道三は町末の小家に忍居て」の逸話で紹介した旧愛知県起町に所在した。
(現在は市町村の合併により、旧尾西市を経て一宮市に属している。)
ここまでの移転の経緯は聖徳寺の寺伝で語られているところである。
そして真宗本山の本願寺側の文書や聖徳寺自身の所蔵文書でも、寺が移転を繰り返したことは
確認できる。
「苅安賀聖徳寺」「大浦郷聖徳寺」「富田寺内聖徳寺」「中島郡留田郷(=富田?)聖徳寺」
……等々。
ただし、各文書に記載された日付と、寺伝による移転の経緯は必ずしも一致しない。
寺伝では永正14年に聖徳寺は富田へ移転した筈である。
しかし本願寺側の文書では、天文12(1543)年時点の所在地を苅安賀としているのだ。
さらにややこしいのは、富田という地名自体は尾張国のあちこちに存在していたことである。
そして、苅安賀にも富田という土地があった。
このため史家の中には「正徳寺の会見」の舞台となった「富田」は苅安賀の富田だと説く者もいる。
起町史や尾西市史では、自身の行政区域に属した木曽川沿いの富田を聖徳寺の故地とする。
(尾西市は昭和30年、1955年に起町と朝日村の合併で誕生。)
だが、平成の大合併で尾西市が一宮市に編入された現在。
新たに一宮市史が編纂されるとすれば、「正徳寺の会見」の舞台をどこに置くのだろうか。
……まあ、一般的には旧起町の富田がそれだとされているので。
「苅安賀説もあるんだよ」と軽く紹介しておく程度が無難だろうけど。
ところで、その後の聖徳寺である。
天正12(1584)年当時、富田は月に6度の市が立つ繁栄ぶりであったという(聖徳寺所蔵羽柴秀吉制札)。
ところが天正14年、木曽川の大洪水によって富田は水没。
聖徳寺は三屋村(現岐阜県笠松町)へ移転することになった。
そこから一時、尾張国清州へ移り、寛永15(1638)年に現在の名古屋市中区錦町へ移転した。
そして近年になって、さらに名古屋市天白区へと移転したのである。
結構な由緒のある寺なのに、こんなにあちこち移転しまくっているのもどうなのだろう。
聖徳寺のなんとも収まりの悪い話。
聖徳寺は何処に
聖徳寺は寛喜年間(1229~32年)、尾張国葉栗郡大浦(現岐阜県羽島市)で創建された。
開基は信濃国出身の元武士で親鸞聖人の直弟子となった小笠原長顕、法名閑善。
山号は七寶山といって、親鸞から七つの寺宝を授けられたことに由来するという。
浄土真宗においては本願寺の直参と格付けられた有力寺院である。
その後、木曽川の洪水によって寺堂が流出したため尾張国中島郡苅安賀(現愛知県一宮市)に
移転。
さらに再び大浦へ戻ったが、永正14(1517)年、中島郡富田へと移った。
この富田は、先に「道三は町末の小家に忍居て」の逸話で紹介した旧愛知県起町に所在した。
(現在は市町村の合併により、旧尾西市を経て一宮市に属している。)
ここまでの移転の経緯は聖徳寺の寺伝で語られているところである。
そして真宗本山の本願寺側の文書や聖徳寺自身の所蔵文書でも、寺が移転を繰り返したことは
確認できる。
「苅安賀聖徳寺」「大浦郷聖徳寺」「富田寺内聖徳寺」「中島郡留田郷(=富田?)聖徳寺」
……等々。
ただし、各文書に記載された日付と、寺伝による移転の経緯は必ずしも一致しない。
寺伝では永正14年に聖徳寺は富田へ移転した筈である。
しかし本願寺側の文書では、天文12(1543)年時点の所在地を苅安賀としているのだ。
さらにややこしいのは、富田という地名自体は尾張国のあちこちに存在していたことである。
そして、苅安賀にも富田という土地があった。
このため史家の中には「正徳寺の会見」の舞台となった「富田」は苅安賀の富田だと説く者もいる。
起町史や尾西市史では、自身の行政区域に属した木曽川沿いの富田を聖徳寺の故地とする。
(尾西市は昭和30年、1955年に起町と朝日村の合併で誕生。)
だが、平成の大合併で尾西市が一宮市に編入された現在。
新たに一宮市史が編纂されるとすれば、「正徳寺の会見」の舞台をどこに置くのだろうか。
……まあ、一般的には旧起町の富田がそれだとされているので。
「苅安賀説もあるんだよ」と軽く紹介しておく程度が無難だろうけど。
ところで、その後の聖徳寺である。
天正12(1584)年当時、富田は月に6度の市が立つ繁栄ぶりであったという(聖徳寺所蔵羽柴秀吉制札)。
ところが天正14年、木曽川の大洪水によって富田は水没。
聖徳寺は三屋村(現岐阜県笠松町)へ移転することになった。
そこから一時、尾張国清州へ移り、寛永15(1638)年に現在の名古屋市中区錦町へ移転した。
そして近年になって、さらに名古屋市天白区へと移転したのである。
結構な由緒のある寺なのに、こんなにあちこち移転しまくっているのもどうなのだろう。
聖徳寺のなんとも収まりの悪い話。
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