677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 01:10:17 ID:jj4va/YI
道三は町末の小家に忍居て
斎藤道三と織田信長の、いわゆる正徳寺の会見。
正徳寺とは信長公記における表記で、正しくは七寶山聖徳寺というが、それはともかく。
舞台となったのは町家七百軒を数える富貴の地であったという富田。聖徳寺の門前町である。
道三は会見の直前、その町外れの小屋に潜み、信長一行の様子を覗き見たというのは
有名な逸話である。
ところが、これに異を唱えたのが聖徳寺の故地、愛知県中島郡の旧・起町が
昭和29年刊行した起町史だ。
「道三たるべきものが、即刻會見すべき信長を、(中略)その道中を隙見する必要は
ないかに思はれる――」
聖徳寺所蔵の羽柴秀吉制札によれば、富田には天正12(1584)年当時、月に6度の市が立ったという。
尾張と美濃の国境の町、また当時の水運交通の動脈である木曽川に面した町として
往時の繁栄が偲ばれる。
この富田に絹屋長者または日比野長者と呼ばれる豪商、日比野氏の屋敷があったと伝えられる。
そして地元の伝承では、道三が信長一行を見かけたのは、この日比野長者屋敷からであったという。
つまり、起町史によれば、道三は信長公記が描くように「町末の小家」にわざわざ「忍居」たわけではない。
美濃から「遠来の道三が到着の仮宿所として、当家を用ひたのではあるまいか」、
その際に偶然に信長一行を見かけただけではないか、というのである。
道三ほどの人物が、聖徳寺で待っていれば会える信長を、こそこそ隠れて覗き見る必要もねーだろ?
……いや、それはそうなんだけど、そもそも「正徳寺の会見」自体のソースが信長公記だし。
「小屋から覗いてうつけプゲラ」→「会見場での変貌にポカーン」のほうが話として面白いし。
地元の伝承以外に斎藤道三と日比野長者の繋がりを示すものもないわけで。
結局、道三の名誉回復には至っていないという話。
いまなら無難に「地元では~と言い伝えられている」程度で済ませるのだろうな市町村史の記述的に……
道三は町末の小家に忍居て
斎藤道三と織田信長の、いわゆる正徳寺の会見。
正徳寺とは信長公記における表記で、正しくは七寶山聖徳寺というが、それはともかく。
舞台となったのは町家七百軒を数える富貴の地であったという富田。聖徳寺の門前町である。
道三は会見の直前、その町外れの小屋に潜み、信長一行の様子を覗き見たというのは
有名な逸話である。
ところが、これに異を唱えたのが聖徳寺の故地、愛知県中島郡の旧・起町が
昭和29年刊行した起町史だ。
「道三たるべきものが、即刻會見すべき信長を、(中略)その道中を隙見する必要は
ないかに思はれる――」
聖徳寺所蔵の羽柴秀吉制札によれば、富田には天正12(1584)年当時、月に6度の市が立ったという。
尾張と美濃の国境の町、また当時の水運交通の動脈である木曽川に面した町として
往時の繁栄が偲ばれる。
この富田に絹屋長者または日比野長者と呼ばれる豪商、日比野氏の屋敷があったと伝えられる。
そして地元の伝承では、道三が信長一行を見かけたのは、この日比野長者屋敷からであったという。
つまり、起町史によれば、道三は信長公記が描くように「町末の小家」にわざわざ「忍居」たわけではない。
美濃から「遠来の道三が到着の仮宿所として、当家を用ひたのではあるまいか」、
その際に偶然に信長一行を見かけただけではないか、というのである。
道三ほどの人物が、聖徳寺で待っていれば会える信長を、こそこそ隠れて覗き見る必要もねーだろ?
……いや、それはそうなんだけど、そもそも「正徳寺の会見」自体のソースが信長公記だし。
「小屋から覗いてうつけプゲラ」→「会見場での変貌にポカーン」のほうが話として面白いし。
地元の伝承以外に斎藤道三と日比野長者の繋がりを示すものもないわけで。
結局、道三の名誉回復には至っていないという話。
いまなら無難に「地元では~と言い伝えられている」程度で済ませるのだろうな市町村史の記述的に……
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