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宮城野・信夫姉妹、仇討ちの話。

2009年08月04日 00:20

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 00:30:56 ID:3//ZnDId
宮城野・信夫姉妹、仇討ちの話。


伊達政宗の家臣、片倉小十郎重長の剣術の師に、志賀団七という男がいた。
この男、無道で知られた人物で、
寛永13年のある日、農民が娘二人を連れ、田で作業している所に通りかかり、
その際、娘が投げ捨てた草が袴に当たったと、
烈火のごとく怒り狂って、娘を切り捨てようとした。
父親が驚き、土下座して詫びるが聞き入れず、志賀はこの父を切った。
父は田の中を逃げたが力尽き、死んでしまった。
子供達も家に逃げ帰ったが、病気で臥せっていた母はこれを聞いて、
やがてショックもあったのか、後を追うように死んでしまう。

姉妹は親の恨みを晴らすため、かたみとなった土地を売り、江戸に出て剣術家、由井正雪を尋ねる。
最初は相手にしなかった正雪だが、姉妹の熱心さと孝心にうたれ、
3年の間に仇討ちをさせることを約束。
姉に宮城野(みやぎの)、妹に信夫(しのぶ)と名をつけ、姉には鎖鎌と手裏剣、妹には長刀を指導。
また、正雪の妻が二人に女としてのたしなみを教えるなどし、
ついに三年で器量・立ち居振る舞いとも門弟一となった。

門弟三人に付き添われて白石に戻った姉妹は、片倉小十郎重長に事の次第を説明。
曰く、「父母ともになき今、生きるすべもないので、親子もろとも、
団七様のお手にかかって死にたい」と。
願われた重長は、志賀の無道を知っていたので、伊達家を通して幕府に伺いを立て、
幕府から孝女であると特別に許しを貰った。

寛永17年(1640年)2月、白石川六本松河原にて、
片倉の侍150人と見物客1000人ほどに見守られ、
姉妹は正雪の妻から送られた着物と鉢巻、
一方の志賀は2尺5寸の大刀を持って、煌びやかないでたちで登場。
戦いが始まると、姉妹は奮戦し、姉が鎖鎌で志賀の腕をからめ取り、
妹が長刀で腕を切り落とし、「父母の無念を晴らしたまえ」と叫ぶや、志賀の首を切り落とした。

仇討ちが終わった後、姉妹は武士を殺した罪を償うためにとその場で自害しようとしたが、
周りにいた人々に止められて思い留まり、姉妹揃って髪を切り、
生涯仏に仕えて暮らしたという。


当時としては大ニュースだったようで、人形浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなり、
死後は八枚田孝子堂に父とともに祀られ、
後年、姉妹を讃え、荒城の月で有名な土井晩翠の歌碑が立てられている。

 郷(さと)の生める 宮城野信夫 かんばしき 孝女の誉(ほまれ) 千代に朽ちせず




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 11:09:50 ID:6d2mO6Z2
>>28仇討ちの泣ける話だな。

……由井正雪って夫婦してこんな所で名前残ってるのか!

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 11:40:53 ID:oZWX8qz7
>>28
おお、由井正雪もやはり一角の人物だったんだなぁ・・・初めて知った
まあそうじゃないと反乱の首謀者なんかに祭り上げられないか

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 11:42:25 ID:muxf7buT
しかし、信夫に宮城野、陸奥の歌枕の地としてまず有名な二つだな
ちょっと出来すぎな感もあるが、そこは由井の心意気か


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    これこそまさにいい話じゃないか!
    ちょっと泣いた。

  2. 人間七七四年 | URL | LmMdU2V.

    この話、なぜか記録がうわさ話レベルでしか残っておらず、実は享保8年に起こった話だとか、実際はなかったとかいう説もあるようです。
    ともあれ、この話は全国に波及して浄瑠璃になるわ歌舞伎になるわ写楽が絵に描くわ、ついには沖縄の伝統芸能、組踊にまでなったそうです。
    参考URL
    ttp://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kyouiku/bunka/akegarasu_sho/ronbun/1-10/H6-1honbun.jsp

    ついでながら、最近歴女の聖地となりつつある白石市では、最近「仇討ちクッキー」「仇討ちまんじゅう」「仇討ちドーナツ」など、姉妹の仇討ちにかけて「仇討ちシリーズ」と言った商品を売り出しています。
    激辛商品なんですが、上に挙げたものは1つだけが激辛ということになっていて、それに当たった人が「仇討ちされた」ってことになるとかw

  3. bad.Ⅳh-95 | URL | -

     由井正雪がらみというと、駿府の花街「二丁町」にも
    遊女宮城野の伝説がある。
     永禄十一年、というので、今川氏は氏真の頃、
    藤井某に落籍されて妻となっていた彼女は京に上った
    夫の帰りを老いた義母と伴に待っていたところ、義母はみまかり、
    駿府は武田氏に襲われ、混乱の中、足軽共の乱暴狼藉に
    犯されるよりは、と本人は自害してしまったという。
     ようやくのことで帰国した藤井某に宮城野は幽冥を
    異にした姿で別れを告げたという、んだけど、これ、
    由井正雪の宮城野・信夫姉妹と混同した伝承としても
    伝わっているそうで。
     姉妹の墓は静岡市横内の来迎院という寺にあるらしい。
    以上、「ふるさと百話」第三巻、「駿府の花街」、
    静岡新聞社1971年刊、よりでした。

  4.   | URL | jYbOzkUY

    この姉妹の父が切られたという田圃
    道路を通ってる時に見つけたわ
    特に観光の名所になってるわけでもなく
    地味なのがまたいい

  5.   | URL | CgzmFXEg

    この宮城野・信夫の仇討は史実かどうかもわからない話ですよ。
    しかも由井正雪の件は明らかなフィクション。
    第一、時代が合わない。
    片倉家も当時の当主は片倉重長ではなく、片倉村定が正解です。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    1677年生まれの片倉村定が、どうやったら1640年当時に当主やれるんだよ
    片倉重長は1615年に当主を継いで、家督相続は1659年の重長没後だから、1640年当時の片倉家当主は重長だ

    由井正雪は1605年生まれで17歳で江戸に来て、楠木正辰に弟子入り&婿養子になって、後に江戸で軍学塾を開いた
    死没は1651年なので1634~1640年の間は江戸で存命。時代はきっちり合致してる

  7. 人間七七四年 | URL | -

    こんなお祭りをみつけました。

    野下鎌踊り(鹿児島県薩摩川内市)

    野下鎌踊りの由来は、遠い藩政の頃 五郎左衛門なる男に父を討たれた、
    姉「おのぶ」と妹「しのぶ」の姉妹が、その仇を討つために三年の長きにわたり、
    浅山という道場で辛苦の修業を積み遂に「おろがせ山」の果し合いで仇を討ったと
    いう物語から語り伝えられています。
     踊りは、三尺刀・鎌・六尺棒をそれぞれ持ち、前と後ろの6人1組で踊ります。
    同じ持ち物でも、前と後ろでは踊りが違います。踊りの中で2人・3人・6人組と
    構成に変化があり、掛け声や鎌が三尺刀・六尺棒を払う音には迫力があります。
    踊りの中で歌われる文句は「おせろが山は前は大川」で「エイエイエイエイ」の
    掛け声とともに、姉妹の仇討ちに対する士気をしのばせています。踊り手は、
    赤いタスキ・白いタスキに白脚絆、ワラジを身につけます。 

  8. 7 | URL | -

    もう一つ追加で

    菊永鎌手踊り (鹿児島県南九州市知覧町)

    「菊永鎌手踊り」は、早くに母を亡くした姉妹が父の田植えの手助けをするとき、
    運悪くそこを通りかかった武士の袴に泥をはねてしまい、それを見た父親がひたすら
    許しを乞うたが、怒った武士は聞き入れず、父親はその場で武士に斬られてしまいました。
    武士の名は、伊達藩片倉家の志賀団七というものでした。
    それから、江戸の由比正雪の下女中となり姉は薙刀、妹は鎖鎌を苦節六年半余りの
    鍛錬の後、由比正雪の後ろ盾であだ討ちを果たすことができました。この姉妹の、
    あだ討ちの様子を踊りとして表現したのが「鎌手踊り」だと伝えられています。
     鎌手踊り発祥の地は、南さつま市金峰町(旧日置郡金峰町)といわれています。
    その金峰町より町内の上別府に伝わり、そこから大正時代に三人の師匠が来て伝授
    されたのが「菊永鎌手踊り」の始まりだといわれて言います。

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