552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 18:34:44 ID:4pJbEAt/
京の東寺の数ある荘園のうち、備中には新見荘という荘園があった。
応仁元年(1467)、東寺はこの荘園との連絡が非常に困難となった。
そう、応仁の乱の勃発である。
乱の影響は地方に及び、東寺における新見荘担当代官、祐成は、年貢収得のための
備中への下向を危険だとして拒否。その後2ヶ月あまりもゴタゴタを続けた挙句、
結局祐成の中間である左衛門五郎と言う人物が、新見荘に下向することとなった。
これが同年10月のことである。
さて、翌応仁二年正月、左衛門五郎下向の知らせを持って、新見荘より一人の僧が、
使者が東寺へと現れた。しかし書状の日付から見ると、新見荘から京までは
通常7,8日でこられるのに、この僧は21日もかかっていた。その事を荘園担当部署である
最勝光院方が尋ねると、彼がに言うには、
「私は新見荘の田所(農政責任者)に扶持されているものです。
今備中と京の間は、上洛する軍勢とそれを阻止しようとする軍勢とが結集し、
甚だ危険なことになっています。このため山陽道も瀬戸内海も通行することが出来ず、
私は四国に渡り、遠回りをして京に上がりました。そのためこれだけの時間がかかったのです。」
最勝光院方は、危険を冒して上洛した彼の行動を大いに賞賛し、僧の苦労に報いるため、
粉骨分(報奨)として銭二百文を与えるよう要求した。
が、ここから話はややこしくなる。
東寺の内部で、「誰が粉骨分を支払うか」が、まるで決まらないのだ。
本来の新見荘の責任者である祐成はこの負担を拒否。
それならば東寺から直接出すわけには行かないのかと、供僧(東寺指導部)に願い出ると、
供僧達は評定で
「前例が無いからできない」と、けんもほろろ。
そりゃあ前例の無い騒乱が起こっているのだから、先例が無いのも当然だと思うが、寺社も
こういう事に融通の利く組織ではなかったのだ。
そこで皆が頭をひねった結果、ナイスアイデアが生まれた
「そうだ!公文僧祐(行政官)から、二百文の銭を新見荘の使僧に『貸す』と言う形にしよう!
そして使僧から借状をとっておいて、後から新見荘に請求すれば良い!」
何のことは無い。最初は東寺からの褒美であったはずの粉骨分が、担当者が皆、自分の懐が
痛むのを嫌がるあまり、結局荘園の負担に添加されてしまったわけである。
寺社の、領主としての当事者能力の欠落を感じさせる、戦国の初めの頃のお話。
553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 20:36:12 ID:yhZ7Kctd
>>552
しょうもないと言うか、どうでもよさそうと言うか……。
まあお役人にとっては問題だったんだろうな。
前例にないことを自分の部署でやったら、これからもあるかもしれない。
そうしたら、また自分の懐が痛むかもしれない、と。
京の東寺の数ある荘園のうち、備中には新見荘という荘園があった。
応仁元年(1467)、東寺はこの荘園との連絡が非常に困難となった。
そう、応仁の乱の勃発である。
乱の影響は地方に及び、東寺における新見荘担当代官、祐成は、年貢収得のための
備中への下向を危険だとして拒否。その後2ヶ月あまりもゴタゴタを続けた挙句、
結局祐成の中間である左衛門五郎と言う人物が、新見荘に下向することとなった。
これが同年10月のことである。
さて、翌応仁二年正月、左衛門五郎下向の知らせを持って、新見荘より一人の僧が、
使者が東寺へと現れた。しかし書状の日付から見ると、新見荘から京までは
通常7,8日でこられるのに、この僧は21日もかかっていた。その事を荘園担当部署である
最勝光院方が尋ねると、彼がに言うには、
「私は新見荘の田所(農政責任者)に扶持されているものです。
今備中と京の間は、上洛する軍勢とそれを阻止しようとする軍勢とが結集し、
甚だ危険なことになっています。このため山陽道も瀬戸内海も通行することが出来ず、
私は四国に渡り、遠回りをして京に上がりました。そのためこれだけの時間がかかったのです。」
最勝光院方は、危険を冒して上洛した彼の行動を大いに賞賛し、僧の苦労に報いるため、
粉骨分(報奨)として銭二百文を与えるよう要求した。
が、ここから話はややこしくなる。
東寺の内部で、「誰が粉骨分を支払うか」が、まるで決まらないのだ。
本来の新見荘の責任者である祐成はこの負担を拒否。
それならば東寺から直接出すわけには行かないのかと、供僧(東寺指導部)に願い出ると、
供僧達は評定で
「前例が無いからできない」と、けんもほろろ。
そりゃあ前例の無い騒乱が起こっているのだから、先例が無いのも当然だと思うが、寺社も
こういう事に融通の利く組織ではなかったのだ。
そこで皆が頭をひねった結果、ナイスアイデアが生まれた
「そうだ!公文僧祐(行政官)から、二百文の銭を新見荘の使僧に『貸す』と言う形にしよう!
そして使僧から借状をとっておいて、後から新見荘に請求すれば良い!」
何のことは無い。最初は東寺からの褒美であったはずの粉骨分が、担当者が皆、自分の懐が
痛むのを嫌がるあまり、結局荘園の負担に添加されてしまったわけである。
寺社の、領主としての当事者能力の欠落を感じさせる、戦国の初めの頃のお話。
553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 20:36:12 ID:yhZ7Kctd
>>552
しょうもないと言うか、どうでもよさそうと言うか……。
まあお役人にとっては問題だったんだろうな。
前例にないことを自分の部署でやったら、これからもあるかもしれない。
そうしたら、また自分の懐が痛むかもしれない、と。
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