841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 20:01:10 ID:HK4aalzW
寧波の乱顛末
大永3年(1523)、明の年号では嘉靖2年、大内義興は明の寧波に、謙道宗設(けんどうそうせつ)を
正史とした遣明船を派遣した。
さてこの時、幕府管領細川高国も、鸞岡端佐(らんこうずいさ)を正使、日本に帰化した中国人である
宋素卿(朱縞)を副使として寧波に遣明船を派遣していた。
大内家と細川家は、貿易利権をめぐって伝統的に仲が悪いのだが、このときは大内義興の
京から山口への帰国による細川高国政権からの離脱で、特に関係が悪化していた。
寧波には大内家の船が先に入港していた。この頃の慣習として、先に入港した船から
入港検査が行われるのだが、細川側は明の担当官吏に賄賂を渡し、これにより細川の船から先に
入港検査を始めたのだ。
これも本来なら、穏やかに口頭での抗議などで済んだ話だったのかもしれない。
が、時期が悪かった。大内家の者達はこれを、細川家による大内への露骨な挑発と
受け取ったのだ。
この時代の武士はこう言うとき、我慢はしない。
宗設と大内家の者達は突如、細川方の船を襲撃し、たちまち鸞岡端佐を討ち殺した。
この時明の官吏が細川方を助けて抵抗したので、宗設はさらに寧波の港を焼き討ち、
さらに紹興城へ逃れた宋素卿を追いかけ、明の役人まで殺すなど、やりたい放題に暴れまわると、
悠々と日本へと帰っていった。
さて、哀れなのは細川方の副使、宋素卿である。大内方の手から逃げ切ったのはいいが、
明の政府はこの騒動の責任を彼に取らせ投獄、のちに獄死する。
この後、この事件は明と日本の深刻な外交問題となり(そりゃそうだ)、日明貿易の停滞から
倭寇が活発化する原因になったりもするのだが、ともかくも、海外でも自重しない戦国武士の、
現地の人には大変迷惑なお話。
寧波の乱顛末
大永3年(1523)、明の年号では嘉靖2年、大内義興は明の寧波に、謙道宗設(けんどうそうせつ)を
正史とした遣明船を派遣した。
さてこの時、幕府管領細川高国も、鸞岡端佐(らんこうずいさ)を正使、日本に帰化した中国人である
宋素卿(朱縞)を副使として寧波に遣明船を派遣していた。
大内家と細川家は、貿易利権をめぐって伝統的に仲が悪いのだが、このときは大内義興の
京から山口への帰国による細川高国政権からの離脱で、特に関係が悪化していた。
寧波には大内家の船が先に入港していた。この頃の慣習として、先に入港した船から
入港検査が行われるのだが、細川側は明の担当官吏に賄賂を渡し、これにより細川の船から先に
入港検査を始めたのだ。
これも本来なら、穏やかに口頭での抗議などで済んだ話だったのかもしれない。
が、時期が悪かった。大内家の者達はこれを、細川家による大内への露骨な挑発と
受け取ったのだ。
この時代の武士はこう言うとき、我慢はしない。
宗設と大内家の者達は突如、細川方の船を襲撃し、たちまち鸞岡端佐を討ち殺した。
この時明の官吏が細川方を助けて抵抗したので、宗設はさらに寧波の港を焼き討ち、
さらに紹興城へ逃れた宋素卿を追いかけ、明の役人まで殺すなど、やりたい放題に暴れまわると、
悠々と日本へと帰っていった。
さて、哀れなのは細川方の副使、宋素卿である。大内方の手から逃げ切ったのはいいが、
明の政府はこの騒動の責任を彼に取らせ投獄、のちに獄死する。
この後、この事件は明と日本の深刻な外交問題となり(そりゃそうだ)、日明貿易の停滞から
倭寇が活発化する原因になったりもするのだが、ともかくも、海外でも自重しない戦国武士の、
現地の人には大変迷惑なお話。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
過激すぎるぜ
( 2009年09月02日 21:15 )
| URL | -
明に打撃を与えたのはまずかったが、細川が悪い
俺でも細川をやる。とはいえタイミングは計るけど
( 2009年11月12日 13:01 )
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