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寧波の乱顛末

2009年09月01日 00:05

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 20:01:10 ID:HK4aalzW
寧波の乱顛末

大永3年(1523)、明の年号では嘉靖2年、大内義興は明の寧波に、謙道宗設(けんどうそうせつ)を
正史とした遣明船を派遣した。

さてこの時、幕府管領細川高国も、鸞岡端佐(らんこうずいさ)を正使、日本に帰化した中国人である
宋素卿(朱縞)を副使として寧波に遣明船を派遣していた。

大内家と細川家は、貿易利権をめぐって伝統的に仲が悪いのだが、このときは大内義興の
京から山口への帰国による細川高国政権からの離脱で、特に関係が悪化していた。

寧波には大内家の船が先に入港していた。この頃の慣習として、先に入港した船から
入港検査が行われるのだが、細川側は明の担当官吏に賄賂を渡し、これにより細川の船から先に
入港検査を始めたのだ。

これも本来なら、穏やかに口頭での抗議などで済んだ話だったのかもしれない。
が、時期が悪かった。大内家の者達はこれを、細川家による大内への露骨な挑発と
受け取ったのだ。
この時代の武士はこう言うとき、我慢はしない。

宗設と大内家の者達は突如、細川方の船を襲撃し、たちまち鸞岡端佐を討ち殺した。
この時明の官吏が細川方を助けて抵抗したので、宗設はさらに寧波の港を焼き討ち、
さらに紹興城へ逃れた宋素卿を追いかけ、明の役人まで殺すなど、やりたい放題に暴れまわると、
悠々と日本へと帰っていった。

さて、哀れなのは細川方の副使、宋素卿である。大内方の手から逃げ切ったのはいいが、
明の政府はこの騒動の責任を彼に取らせ投獄、のちに獄死する。

この後、この事件は明と日本の深刻な外交問題となり(そりゃそうだ)、日明貿易の停滞から
倭寇が活発化する原因になったりもするのだが、ともかくも、海外でも自重しない戦国武士の、
現地の人には大変迷惑なお話。







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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    過激すぎるぜ

  2.   | URL | -

    明に打撃を与えたのはまずかったが、細川が悪い
    俺でも細川をやる。とはいえタイミングは計るけど

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