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律儀な最上義光、最期の挨拶

2009年10月04日 00:18

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 00:29:32 ID:uVA0w5z3
実は律儀な義光、最期の挨拶

最上義光は1612年、67歳のころから病気に苦しみ寝込むようになっていた。
それでも政務はおこたらず、北楯利長の治水工事の支援などをしている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-639.html
文才と達筆にめぐまれた義光は右筆をもちいなかったが、このころはさすがに使うようになっていく。

そして68歳のとき、義光は病躯をおして秀忠と家康に死ぬ前に会いたいと訴える。
このままでは客死まちがいないしと周囲はとめるが、義光は出羽を出て江戸、駿府に向かった。
半日すすんでは半日やすむような旅である。義光は途中で祈祷をした僧侶に
「祈祷おかげで体も調子いい」と手紙を書くが、字は苦しそうにゆがんでいた。
そんな中、やっと江戸の秀忠、駿府の家康に面会した義光である。
義光は家康から薬や着物までもらったが、涙を流しろくに何も言えなかったという。
その胸中はいかばかりか。

義光はやっとの思いで山形にもどると、「もう思い残すことはない」と言い、
寝たきりになった。その年末には秀忠から見舞金が届く。
翌年一月、義光は69歳で死去した。折しも大坂の陣一年前のことである。

このあとを継いだ二男家親だがわずか数年で急死したため、さまざまな死因が憶測された。
もっとも有名なのは一番荒唐無稽な「侍女による刺殺説」。
無茶苦茶な話なんであるが、おもしろいため小説や大河ドラマで軒並み採用されて、
家親はバカ殿扱いされるようになった…琉球の使者を出迎える役目を果たしたり、
そんなアホとも思えないけどねえ。近年発見された史料で、急病死が有力。
余談だが義光の六人いた男子で天寿をまっとうできたのは四男のみである。

でもこれを義光悪事の報いとするのは、駒姫のことも含めて勘弁な。


鮭ネタイラネも勘弁な。埋めと思ってな。




998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 00:32:03 ID:zWgjp3Ju
出羽から江戸、駿府って凄いな


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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    甥っ子と同じ享年だな。

  2. 人間七七四年 | URL | mQop/nM.

    何の病気だったんだろう

  3. VIPPERな名無しさん | URL | -

    なんか報われない家族だ。

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