81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 02:28:22 ID:NOPUXNi/
天正十年、本能寺の変が起こると
その年の始め武田勝頼を滅ぼし織田に平定されたばかりの甲斐では乱が起こり、
代官の川尻秀隆がSUKEKIYO流に殺害されるなど不安定な状況に陥っていた
どうにか西から伊賀を超えて帰還したばかりの徳川家康は
これを何とか抑え、あわよくば甲斐を手に入れる為に
武田の旧臣である穴山梅雪(この時には京で死亡している)の残兵を
甲斐に入れて鎮圧しようと考えていたが、ふと思いついて岡部正綱を呼んだ
岡部正綱は元今川の旧臣で、今川が滅んだ後は武田に仕え、高天神城を守っていた
更に高天神城が落ちてからは徳川に仕えていた武将である
今川時代には家康と交友関係を結んでいただけでなく、武田のことにもとても詳しかった
話を聞くと正綱は言った
「恐れながら申し上げます。甲斐に穴山の残兵を入れ、力づくで鎮圧を行えば
きっと川尻の二の舞となり、人心は安んらえず、乱れたままとなりましょう
ここは私と、普請に優れた曽根下野守(曾根昌世・武田家旧臣)を甲斐に遣わし、
信玄公の菩提寺を修理し、勝頼・信勝親子の自刃した地に寺を営み、
両将の霊を祭れば、甲斐の民はきっと我々をただの侵略者とは見ないはず
まずは民の心を掴むことです」
家康はその意見を受けてその通りにさせた
正綱と曾根昌世は、ほぼほったらかしだった勝頼達の遺体を納めると、
それらをねんごろに弔い、また武田家縁の寺社を修復して回りながら
甲斐の国人達を訪ねて、徳川に降ることを大いに説得した
結果、徳川は甲斐を上手く治めることが出来たのだった
ちなみに蛇足な話だが、
正綱はこの後、武田家の旧臣達を接待する際に急性アルコール中毒で没してしまった
と言われている
高天神城で見殺しにされてしまいそうになったりしながらも
それでもこうして死後の供養をしてやろうというのは
理由があるにせよ、良い話なのかなあと思って
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 06:16:24 ID:lkgXS4Ia
>>81
激しい飲み会だったんだろうなあw
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 08:33:06 ID:cnXxkMps
このころの酒はまだ質も良くないしね、飲み過ぎると悪酔いしそうだ
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 08:41:19 ID:ns0vnGDJ
今川、武田と仕えた家が滅んで、残された将たちが
その後どう生きた(あるいは死んだ)かというのは興味深いな。
86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 09:08:14 ID:bt53n0x/
>>81
黒鬼の親父さんだよね
成瀬正成の親父も武田時代の人脈を大切にして甲斐入部に貢献してるんだよね
87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 11:02:35 ID:FnrbS9UL
朝飲んで昼飲んで夜飲んで・・・が当然の時代だもんな。
88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 11:43:07 ID:HmzKTA4h
>>81
高天神城にいたのは岡部元信じゃねえの?
93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 12:21:08 ID:NOPUXNi/
>>88
すみません頭の中で元信と正綱を混同して間違えていたみたいだ
高天神城を守っていたのは岡部正綱の弟とも親戚とも言われている岡部元信で
正綱は高天神には居ませんね
指摘ありがとうございます
岡部元信も義元の首を織田から奪い帰ったなんて話があったり
長篠合戦で徳川軍とぶつかって攻撃を凌いでいたり
かなりの猛将ですよね
96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 12:54:11 ID:o3Svi6D+
酒の飲みすぎというか飲まされすぎで死んだといえば家久(善)
97 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/04(日) 13:14:31 ID:j6ycjINM
伊達政宗「酒ごとき出ぶっ倒れるなんて情けねーw」
土井さんか何かいいたそうに見ています
98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 16:13:05 ID:hKHLTtBa
ただ当時は酒って貴重品だったと聞いた事もある
急性アル中は兎も角そう毎日飲めるものだったのだろうか?
99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 16:16:47 ID:EyOoYpMF
戦国時代、足軽に1日当たり配給される米が平均1升だったんだが、まとめて与えると
それを使ってどんどん酒を醸造してしまうので、何回かに分けて与えていたそうな。
100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 17:45:12 ID:cnXxkMps
まだ白米すら無かった時代だから、酒を造っても酔えるだけの不味い代物だったろうなあ
101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 17:47:32 ID:ou+d10Rw
映画の大脱走でも捕虜がサツマイモで酒を造る話があるな。
102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 20:36:00 ID:HlEohJc3
室町時代は畿内の寺社を中心に、醸造技術が発達した時代だっていうな
民間では、まだまだ甘酒に近いものを飲んでただろうけど
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 20:46:44 ID:w8z8Mbck
フランシスコ・ザビエル曰く「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、
その量は少なくして価は高し」だからねい。
もっとも、16世紀中盤に九州で蒸留酒が作られてはいたそうだけど。
天正十年、本能寺の変が起こると
その年の始め武田勝頼を滅ぼし織田に平定されたばかりの甲斐では乱が起こり、
代官の川尻秀隆がSUKEKIYO流に殺害されるなど不安定な状況に陥っていた
どうにか西から伊賀を超えて帰還したばかりの徳川家康は
これを何とか抑え、あわよくば甲斐を手に入れる為に
武田の旧臣である穴山梅雪(この時には京で死亡している)の残兵を
甲斐に入れて鎮圧しようと考えていたが、ふと思いついて岡部正綱を呼んだ
岡部正綱は元今川の旧臣で、今川が滅んだ後は武田に仕え、高天神城を守っていた
更に高天神城が落ちてからは徳川に仕えていた武将である
今川時代には家康と交友関係を結んでいただけでなく、武田のことにもとても詳しかった
話を聞くと正綱は言った
「恐れながら申し上げます。甲斐に穴山の残兵を入れ、力づくで鎮圧を行えば
きっと川尻の二の舞となり、人心は安んらえず、乱れたままとなりましょう
ここは私と、普請に優れた曽根下野守(曾根昌世・武田家旧臣)を甲斐に遣わし、
信玄公の菩提寺を修理し、勝頼・信勝親子の自刃した地に寺を営み、
両将の霊を祭れば、甲斐の民はきっと我々をただの侵略者とは見ないはず
まずは民の心を掴むことです」
家康はその意見を受けてその通りにさせた
正綱と曾根昌世は、ほぼほったらかしだった勝頼達の遺体を納めると、
それらをねんごろに弔い、また武田家縁の寺社を修復して回りながら
甲斐の国人達を訪ねて、徳川に降ることを大いに説得した
結果、徳川は甲斐を上手く治めることが出来たのだった
ちなみに蛇足な話だが、
正綱はこの後、武田家の旧臣達を接待する際に急性アルコール中毒で没してしまった
と言われている
高天神城で見殺しにされてしまいそうになったりしながらも
それでもこうして死後の供養をしてやろうというのは
理由があるにせよ、良い話なのかなあと思って
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 06:16:24 ID:lkgXS4Ia
>>81
激しい飲み会だったんだろうなあw
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 08:33:06 ID:cnXxkMps
このころの酒はまだ質も良くないしね、飲み過ぎると悪酔いしそうだ
85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 08:41:19 ID:ns0vnGDJ
今川、武田と仕えた家が滅んで、残された将たちが
その後どう生きた(あるいは死んだ)かというのは興味深いな。
86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 09:08:14 ID:bt53n0x/
>>81
黒鬼の親父さんだよね
成瀬正成の親父も武田時代の人脈を大切にして甲斐入部に貢献してるんだよね
87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 11:02:35 ID:FnrbS9UL
朝飲んで昼飲んで夜飲んで・・・が当然の時代だもんな。
88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 11:43:07 ID:HmzKTA4h
>>81
高天神城にいたのは岡部元信じゃねえの?
93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 12:21:08 ID:NOPUXNi/
>>88
すみません頭の中で元信と正綱を混同して間違えていたみたいだ
高天神城を守っていたのは岡部正綱の弟とも親戚とも言われている岡部元信で
正綱は高天神には居ませんね
指摘ありがとうございます
岡部元信も義元の首を織田から奪い帰ったなんて話があったり
長篠合戦で徳川軍とぶつかって攻撃を凌いでいたり
かなりの猛将ですよね
96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 12:54:11 ID:o3Svi6D+
酒の飲みすぎというか飲まされすぎで死んだといえば家久(善)
97 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/04(日) 13:14:31 ID:j6ycjINM
伊達政宗「酒ごとき出ぶっ倒れるなんて情けねーw」
土井さんか何かいいたそうに見ています
98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 16:13:05 ID:hKHLTtBa
ただ当時は酒って貴重品だったと聞いた事もある
急性アル中は兎も角そう毎日飲めるものだったのだろうか?
99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 16:16:47 ID:EyOoYpMF
戦国時代、足軽に1日当たり配給される米が平均1升だったんだが、まとめて与えると
それを使ってどんどん酒を醸造してしまうので、何回かに分けて与えていたそうな。
100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 17:45:12 ID:cnXxkMps
まだ白米すら無かった時代だから、酒を造っても酔えるだけの不味い代物だったろうなあ
101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 17:47:32 ID:ou+d10Rw
映画の大脱走でも捕虜がサツマイモで酒を造る話があるな。
102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 20:36:00 ID:HlEohJc3
室町時代は畿内の寺社を中心に、醸造技術が発達した時代だっていうな
民間では、まだまだ甘酒に近いものを飲んでただろうけど
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/04(日) 20:46:44 ID:w8z8Mbck
フランシスコ・ザビエル曰く「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、
その量は少なくして価は高し」だからねい。
もっとも、16世紀中盤に九州で蒸留酒が作られてはいたそうだけど。
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コメント
人生七十四年 | URL | -
天地人博行ったら、謙信、近衛前久、足利義輝があびるように酒飲んでたって逸話があったな。
謙信さんは一人でも呑みまくってたし、金さえあれば量は手に入りそう
この逸話でも接待だから金かけてそうだし
( 2009年10月05日 01:07 )
人間七七四年 | URL | Pnsj6K02
急性アルコール中毒っていう認識が戦国時代にあったのかな
当時はなんて言ったんだろう
酒当たりとか?
( 2009年10月05日 13:10 [Edit] )
| URL | -
急性アルコール中毒が知られていたかどうかは分からないが、過剰な酒は毒だと言う認識はあったと思う
毛利さんところとか、元就さん以前の当主二人が酒毒で早世してて「大酒はやめろ」と常々子供らに言ってたようだし
( 2009年10月05日 21:27 )
人間七七四年 | URL | -
主家が貧乏してる時に酒作って生計立てた武将が九州にいるとか
( 2009年10月06日 17:38 )
人間七七四年 | URL | -
蛇足だけど『大脱走』で作ったのはジャガイモの酒じゃない?
かなり味はキツそうだったけど
( 2009年10月10日 07:37 )
人間七七四年 | URL | UXr/yv2Y
正綱も元信に負けない猛将ですね。信玄に取られた今川館を取り返したあげく信玄に乞われて配下になったとか。
今川人質時代の家康と親しかったので、三河から駿河へ侵攻する家康下では北条戦との殿を務めたとか
孫の代から岸和田へ定着してしまったので地元岡部町(現藤枝市)では影が薄いがもっと取り上げられていい存在。
( 2015年10月24日 09:51 [Edit] )
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