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新納忠元、細川幽斎からの降伏勧告に

2009年10月12日 00:10

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/11(日) 20:29:50 ID:fj9oTRqP
細川幽斎「鼻のあたりに 松虫ぞ鳴く」
新納忠元「上髭を ちんちろりんと 捻り上げ」

新納忠元と細川幽斎がこんな遣り取りをする前の出来事。

島津義久が豊臣秀吉に降参した後も、薩摩にはまだまだ徹底抗戦を主張するものも多かった。
弟の義弘や歳久がそうであり、新納忠元もその一人であった。

彼は大口城に留まり続け、ついには細川幽斎の軍勢に包囲されるに至ったのである。
ところが幽斎の軍勢、存外に動きが鈍い。これを見た忠元は行動を起こした。
奇襲をかけるのか、と思いきや使者を派して糧米を送り届けたのである。

使者が持参した書状にはこう書かれていた。
「京都の軍勢兵糧乏しくお困りの由承り及ぶ、これをきこしめして我が大口城に押し寄せられよ、
忠元随分にご会釈仕るべし」
そちらの兵糧不足はお見通しだ。攻めるなら、こちらの送った米を食べてから大口城に来られよ、
不肖忠元が心行くまでお相手しよう、というのである。

これを見た幽斎は驚いた。事実、幽斎の軍勢は大軍であるため兵糧が行き渡らず、
土地の貧しい薩摩では徴収もままならなかったのである。

この男、死なすには惜しいと思ったか幽斎は石田三成、伊集院忠棟と供に忠元に返書を送った。
その内容は兵糧の件を謝すと供に、
・たとえ自分の軍勢が敗れても後に控えている秀吉の軍勢には到底太刀打ちできないであろう事
・既に主君の義久が降伏している以上、これ以上の抗戦は不忠であること
等を述べ、一命は助かるように取り計らうからと降伏を勧めるものであった。

だが忠元はこれを撥ね付けた。
「この国中一戦して相防ぐ者が無ければ薩摩に男児一人も無きが如し、この城下に寄せつけて
一戦に及ばん」
秀吉の軍勢が来ているのに薩摩国内で誰も一戦交えなかったとあっては、
まるで薩摩に真の男児が一人も居ないようではないか。
ここは城下にて一戦して雌雄を決しよう。

…自分では忠元を説き伏せることは出来ない、さりとて殺すには惜しい、
そう思った幽斎は秀吉を通じて義久、義弘から降伏を進めさせることにした
(この時点で義弘も義久に遅れて降伏していた)。
幼少から仕えた主筋の二人に言われては、忠元も従うほか無く渋々降伏するに至った。

この後に秀吉とどんな遣り取りがあったのかはこちらをどうぞ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2539.html

徹底抗戦を貫くことで、却って好印象を与えた新納忠元のお話。
尤も歳久の場合は逆効果だったけど…




438 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/11(日) 21:06:07 ID:Z2C9XlDn
>>436
かっこいいね、薩摩隼人の鑑ですな。
「敵に塩を送る」って話も、実際こう言うやりとりを
信玄と謙信がやったら絵になるな…っていう発想かも
しれないな。

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    上原長門守みたいに義久が降伏してからも一年近く城に籠ってた家臣もいたんだよね。しかも新領主に明け渡すべき城に。
    それらもやはり義久に命じられてようやく城を明け渡してる。
    気骨がある家臣が多いという考え方も出来る一方、義久が率先して明け渡しの命令を出してないところに、義久の思いが見え隠れる思いがする。

  2. 人間七七四年 | URL | -

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