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流れ公方、足利義稙(義材)

2009年11月14日 00:21

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 23:15:50 ID:IiYZmmh/
永正6年(1509)10月深夜、足利10代将軍・義稙(義材)の御所を円珍なる荒法師が襲った。
北陸を転々としていた義稙は、2年前に細川高国らの後援により11代将軍・義澄を追放して
将軍の座に返り咲いたが、円珍はその義澄が放った刺客だった。

円珍らは義稙の近習をことごとく斬り倒し、義稙自身さえも手傷を負う有様だったが、とっさの
機転で屋敷中の灯りを消して隠れたところ、円珍は近習の死体を義稙と誤認して去った。

これがトラウマになったか、永正10年(1513)3月、高国と対立して身の危険を感じた義稙は、
誰にも告げずに御所から姿を消した。
突然の将軍の失踪に、後土御門天皇までが憂慮してお言葉を発したが、当の義稙自身は
逃亡先の甲賀で病気になり寝込んでいた。

天皇周辺をも騒がせた事態に高国が折れる形で和解が成立し、京に戻った義稙だったが
大永元年(1521)3月、今度は堺に逃亡した。
しかし、今回は後柏原天皇の即位式直前だった。武家の棟梁が即位式を欠席するという
椿事に天皇は激怒し、義稙の将軍職は廃され、義澄の子・義晴が12代将軍となった。

帰る場所を失い、今度は海路阿波へ向かう義稙だったが、その船中に落首が貼り出された。

『 誰ぞやこの 鳴門の沖に 御所めくは 泊り定めぬ 流れ公方か 』

2年後の大永3年4月、義稙はそのまま阿波で永眠した。

家族まで灰と消えつつも、「剣豪将軍」として現代まで武名を輝かせる義輝が幸せか、
「流れ公方」と笑われつつも、巧みに身を翻し天寿を全うした義稙が幸せだったか、
それは当人たちにしか分からない。




135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 01:29:51 ID:UYTLGV5/
>>134
足利義稙は面白いよねー。不屈の将軍。
あんなに波乱万丈の将軍ってのもちょっと無い。

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 03:23:24 ID:ZApLDZaT
記録上、最初の忍びかもしれないとされてるのが円珍だっけか

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    ここら辺の将軍さんたちは、
    皆えらい人生を送ってるよなぁ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    義稙も剣の腕が素晴らしかったと伝わってるね

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