378 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 12:49:34 ID:NACAS0Ot
まだ氏治様の流れがギリギリ終わっていない様で安心。まだまだ行けるw
太田資正様好きとしては、便乗してこれを書かねばw
『誕生、片野の三楽斎』
太田資正という人を説明する時、大体の場合は岩槻から追放されて終了か、
追放後に佐竹家臣入りして~完~となってたり、あまり触れられていない部分がある。
そこの部分のお話。
北条を相手に、武蔵岩槻を居城とした支城と三楽犬
(まとめサイトの『太田資正の戦国トップブリーダー・いい話」を参照 )
により粘っていた太田資正だが、自分の子・氏資により居城を奪われ、各地を
放浪していた。
家臣だった小宮山弾正のいる戸塚城に寄ったかと思えば、
成田氏や上杉謙信の元へ行ったりと各地を放浪して、
1566年ごろ仕えるに至った家は、何と常陸の小田家であった。
氏治「これはこれは、武蔵国から遥々よう参られた」
資正「実は某、息子に居城を奪われまして、嫡子政景と共に放浪の日々を
送っておりました。どうか岩槻奪還の悲願を達成するまでの間、
我らを氏治殿の家臣へお加え願えませぬでしょうか」
氏治「あい分かった。資正殿の武勇はかねがね耳に入っておるゆえ願っても無いこと。
資正殿には片野城、嫡子の政景殿にも柿岡城を与えるゆえ、
それぞれ守って頂きたい」
氏治(キタコレw今は猫のも借りたいとこだし、前線に入ってもらっちゃおう)
資正(ニヤリ)
とかの会話があったかは不明だが、ここで資正は嫡子政景と共に、小田の配下となる。
この時の知行の数値は怪しく、一千貫と書いたものや、一万八干石書かれるものも
ある様で。
しかしどちらにせよ、氏治はこの時、せいぜい一武将が仕官するかのレベルにしか
考えていなかったのだろう。
だが、この太田資正。彼はこの後の常陸国に大きく影響を与えていくことになる。
……しばらく経って。
資正「どうか我等を、義重殿の配下へお加え下さい。手土産として、仇敵の小田氏治
より片野城・柿岡城を手土産として切取って参りました」
菅えもん「太田親子が、城ごと佐竹家へ寝返りました」
氏治「どういうことなの……」
資正と政景は、なんと氏治の敵である佐竹義重へと即刻寝返ったのだ。城ごと。
片野も柿岡も、佐竹方への前線にある大事な城。
資正の登場により、常陸のミリタリーバランスは大きく崩れた。
379 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 12:50:33 ID:NACAS0Ot
寝返られた氏治は当然怒り、資正・政景を攻めるが、資正は岩槻城時代にて、
散々あの北条とやりあっていたせいか、小田軍三千騎vs太田軍千以下という戦いでも、
苦戦することはあれども最終的に勝利するなど、少なくとも片野・柿岡の両城を、
一度たりとも落城させることはなかった。
小田城にも資正の手が加えられる。
戦国期に入っても、単郭に堀があったかどうかの、城と言うより中世武士の館状態
だった小田城。奪っても氏治の謎のカリスマで取り戻されるの繰り返しだったが、
資正「じゃあ、奪い返せない様に改造しよう」
と、奪ってから政景と共に大改修していく様になる。
その結果の小田城↓
ttp://otakesumiyo.hp.infoseek.co.jp/odatk.htm
(氏治らも、ちょっとくらいは強化していったろうけど)
すぐ横の前山や、筑波山にまで関係する城跡があるとか(城域繋がってた?)。
これにより、後年になるにつれ、段々と昔の様には取り返せなくなってくる。
そして、資正の寝返り以降、氏治と戦う面子にも変化が出る。
太田資正,梶原政景,真壁氏幹
大方、この3人が佐竹方として毎回立ちはだかる様になる。
……というか、氏治の矛先が、寝返った資正らに向かってるだけとも言える。
もともと戦に勝てないのは先の通りだが、1574年には土浦城までも落とされて、
氏治は一時常陸から追い出される。
ころころ落ちる小田城と違って、土浦城が落ちたことは無かった。
もはやそれほどまでに、軍事力に差が出てしまっていたのだ。
が、氏治にとっての最期のチャンスが訪れる。DQN政宗公の登場である。
勢いに乗る伊達に、佐竹は全力で当たらねばならず、
反対側に位置する、南の氏治に構ってる余裕がなくなったのだ。
今なら手薄。しかも伊達と挟撃が出来る!ということで、兵を起こしたのだが……。
???「待てゐ!」
小田城にて立ちはだかるのは、資正(もうすぐ寿命)ら、太田&梶原軍団だった。
小田城に篭城する政景、そこへ後詰する資正、その間に挟まれる氏治という
見事な後詰の図にて、小田城はついに落城しなかった。
そして氏治は秀吉により改易。
資正自身も、小田原征伐終了後しばらくして死去。
よく書かれる太田資正の列伝だと、北条と戦っているところが強調されがちで、
後年ずっと氏治キラーだったことはあんまり書かれないので、知らなかった人も
多いかと。以上です。
381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 12:56:45 ID:gGwzkcnU
>>378-379
猫の手は借りても犬の手は借りるなという教訓ですね
382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 13:11:38 ID:HMX+2DTa
たいへんよ!武田北条連合軍の攻撃で松山城が降伏しちゃったみたいで、
後詰めにきた謙信ちゃんがキレたみたい…三楽ちゃんが殺されそうだわ
383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:45:57 ID:yIGUwd5b
常陸小田氏と言われてパッと思いつくのは小田氏治と
後は流れ着いた北畠親房だなぁ
龍造寺に攻められた肥前小田氏って常陸のと関係あったっけ?
384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:52:01 ID:1l2mm3HS
>>383
一応常陸小田氏から分かれた家>肥前小田氏
11代当主の小田持家の弟、直家の流れ。
385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:01:30 ID:/Dz+FLyU
>龍造寺に攻められた肥前小田氏
もうちょっと他の紹介の仕方あるだろw
386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:07:45 ID:1l2mm3HS
肥前小田氏も、少弐氏が滅んだ後は大友と龍造寺の間をあっちに付いたりこっちに付いたりした挙句、
龍造寺隆信に、いかにも隆信らしいやり方で滅ぼされてるな。
387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:25:13 ID:B85SO6OL
城ごと寝返り…
なんと太田さんの悪い話だったか。
388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:27:14 ID:8SzD3RGW
いくら戦国時代だからってこれはひどい
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:35:07 ID:Cos3ydHm
信秀「信頼を裏切って城を取るとか、人間として最低だな」
390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:40:47 ID:gtSsrHk+
しかし見てて思うんだが城は奪われても
よくぞ謀殺されたり暗殺されたり下克上されたりしなかったよなw
するほどのものではないと思われていたのかもしれないが
隣の国に直家さんや晴信さんやまー君やそのおじさんがいたら
氏治さん安らかに死ねなかったんじゃないかと思う……
391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:45:33 ID:UFgkSI3/
軒を貸したら母屋を獲られたでござる・・・
母屋を獲り返そうとしたらセコムされてたでござる・・・・
392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:55:34 ID:ZsZsPLNJ
小田氏治「ワシの城返して!返して!!」
篭城中の太田息子「セコム呼びますね^^」
セコム監視センターの太田父「天庵さん困るんですよね、もうあなたのものじゃないんですから。
早々にご退去願いましょうか」
393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 15:17:37 ID:NACAS0Ot
>391
資正「氏治さん、セコムしてますかwセコムしてなかったんですかwww」
氏治様は本当に家臣に恵まれたってことでしょうね。
なんでも、家臣の菅谷一族は、霞ヶ浦周辺の水運利権を支配してた様で、
結構その財力も、小田の『土浦城から反撃』に相当役立っていたの
ではないかと。
当時は霞ヶ浦及び周囲の川が、今と比べられないほど広かったらしく、
土浦城は地形的にも攻め難い。
普通に土浦が居城で良いような。
あと、資正様が実際どう考えてこの行動をしたのかは不明。
仕えてみて、この当主じゃ岩槻奪還は不可能と思ったのか、
書いたように、『最初から』何かしら手土産を得るつもりで仕えたのか。
はたまた全く別で、小田に仕官せず、既に佐竹が落としていた城を、
佐竹に仕官してきた2人に与えたのが脚色されたとか、色々な説がある様子。
ともかく、一つ言えるのは、
小田城奪還に固執する小田氏治と、
岩槻城奪還に固執する太田資正とが戦った。
妙な運命を感じるのは絶対気のせいじゃないwww
394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 16:26:17 ID:gGwzkcnU
三楽斎には同情していたんだが、
もう同情できない!w
395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 16:31:33 ID:gU2QPOpO
英雄だな、、、、ある意味。
396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:11:04 ID:yR/vczHT
>>379の小田城見ると、三楽さんも物凄い気合い入れて縄張りしたもんだよな。
氏治さんもさぞかし驚いたことだろう。
397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:17:10 ID:B3QAcWyn
>>396
コードギアスの紅蓮聖天八極式を見た時のラクシャータみたいな感じかな?
398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:44:50 ID:av5rx39c
>>393
土浦城が毎度毎度小田城奪還の拠点になってるあたり、
城としては充分だろうから、
小田城見限ってそっちを本拠にしたほうが理にかなってるな。
もっとも小田城をあっさり捨ててたら、
氏治が今ここまで注目されることは絶対になかっただろうがw
399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:06:36 ID:eH3qRvds
プチ小田氏治ブームだw
上のリンク先の小田城の写真や図面を見た限り
とても戦略的に価値があると思えないな。
まるで住居のよう。俺んち返せよ!って感じだったのかなw
400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:16:34 ID:TO97nCxg
やはり名字の地だからからかねぇ
401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:24:29 ID:1l2mm3HS
>>400
後、地元の領民の小田氏への支持が強かったらしい。
攻め取られても相手に年貢提出を拒否したり。
家臣だけじゃなく領民からも、不思議なくらい慕われていたようだ。>氏治
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:05:39 ID:M9e38msO
>399
小田城が筑波山塊の南端の麓で、土浦城が霞ヶ浦の岸にあるから、
この2点間を制圧されると、南北交通は完全に遮断されるし、
東西の交通だって20km以上北の現在のJR水戸線が通っているあたりまで
回り道しないといけなくなる。
佐竹氏が下野、下総の反北条勢力と協力しようとするなら、
小田城の戦略的な価値は非常に大きいといえる。
403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 19:41:46 ID:NACAS0Ot
>>402
その両城の中間に、地味に藤沢城もあったりする。
どうも小田庶流・家臣の守る城郭がそれなりの数は各地あったみたい。
海老ヶ島城もそうだけど、木田余城とかはそれなりの城郭だったみたい
……と、フォローしようと思ったけどダメだwww
なぜなら、調べたらば名が挙がってる城以外は、大体が城っていうか、
小田城初期と変わらないっぽい、館をちょいと強化した程度ってことが
分かったから。頼みますよ氏治様www
とすると、片野・柿岡城は小田の『主だった城』に数えるような城
だったんだろう。
……しっかし、地図見てると、片野・柿岡って相当面倒な部分
取られたんやなあと思うぜよ。
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:42:28 ID:x5IUdn2I
土浦から、古河や結城に直通する場所だな、小田城
関東諸侯にとって、争奪の地になるだけの価値はあったろう
405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:46:37 ID:WqANowmX
名字が小田の俺としては感涙せざるを得ない流れ
406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 20:01:04 ID:hp9iF3FP
>>397
その例え分かる人にしか分からんだろw俺はなるほどって思ったけど
てか、太田家は築城や縄張りに精通してたのかな
祖父の道灌も江戸城で有名だし
丹羽さん家なんかも親子で築城してるから家ごとに技術を受け継いでるのか
407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 20:44:44 ID:iY21lQaa
城をわざと浪人に取らせる→鍛えたい武将で攻めて勲功upっていうのを思い出した。
まだ氏治様の流れがギリギリ終わっていない様で安心。まだまだ行けるw
太田資正様好きとしては、便乗してこれを書かねばw
『誕生、片野の三楽斎』
太田資正という人を説明する時、大体の場合は岩槻から追放されて終了か、
追放後に佐竹家臣入りして~完~となってたり、あまり触れられていない部分がある。
そこの部分のお話。
北条を相手に、武蔵岩槻を居城とした支城と三楽犬
(まとめサイトの『太田資正の戦国トップブリーダー・いい話」を参照 )
により粘っていた太田資正だが、自分の子・氏資により居城を奪われ、各地を
放浪していた。
家臣だった小宮山弾正のいる戸塚城に寄ったかと思えば、
成田氏や上杉謙信の元へ行ったりと各地を放浪して、
1566年ごろ仕えるに至った家は、何と常陸の小田家であった。
氏治「これはこれは、武蔵国から遥々よう参られた」
資正「実は某、息子に居城を奪われまして、嫡子政景と共に放浪の日々を
送っておりました。どうか岩槻奪還の悲願を達成するまでの間、
我らを氏治殿の家臣へお加え願えませぬでしょうか」
氏治「あい分かった。資正殿の武勇はかねがね耳に入っておるゆえ願っても無いこと。
資正殿には片野城、嫡子の政景殿にも柿岡城を与えるゆえ、
それぞれ守って頂きたい」
氏治(キタコレw今は猫のも借りたいとこだし、前線に入ってもらっちゃおう)
資正(ニヤリ)
とかの会話があったかは不明だが、ここで資正は嫡子政景と共に、小田の配下となる。
この時の知行の数値は怪しく、一千貫と書いたものや、一万八干石書かれるものも
ある様で。
しかしどちらにせよ、氏治はこの時、せいぜい一武将が仕官するかのレベルにしか
考えていなかったのだろう。
だが、この太田資正。彼はこの後の常陸国に大きく影響を与えていくことになる。
……しばらく経って。
資正「どうか我等を、義重殿の配下へお加え下さい。手土産として、仇敵の小田氏治
より片野城・柿岡城を手土産として切取って参りました」
菅えもん「太田親子が、城ごと佐竹家へ寝返りました」
氏治「どういうことなの……」
資正と政景は、なんと氏治の敵である佐竹義重へと即刻寝返ったのだ。城ごと。
片野も柿岡も、佐竹方への前線にある大事な城。
資正の登場により、常陸のミリタリーバランスは大きく崩れた。
379 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 12:50:33 ID:NACAS0Ot
寝返られた氏治は当然怒り、資正・政景を攻めるが、資正は岩槻城時代にて、
散々あの北条とやりあっていたせいか、小田軍三千騎vs太田軍千以下という戦いでも、
苦戦することはあれども最終的に勝利するなど、少なくとも片野・柿岡の両城を、
一度たりとも落城させることはなかった。
小田城にも資正の手が加えられる。
戦国期に入っても、単郭に堀があったかどうかの、城と言うより中世武士の館状態
だった小田城。奪っても氏治の謎のカリスマで取り戻されるの繰り返しだったが、
資正「じゃあ、奪い返せない様に改造しよう」
と、奪ってから政景と共に大改修していく様になる。
その結果の小田城↓
ttp://otakesumiyo.hp.infoseek.co.jp/odatk.htm
(氏治らも、ちょっとくらいは強化していったろうけど)
すぐ横の前山や、筑波山にまで関係する城跡があるとか(城域繋がってた?)。
これにより、後年になるにつれ、段々と昔の様には取り返せなくなってくる。
そして、資正の寝返り以降、氏治と戦う面子にも変化が出る。
太田資正,梶原政景,真壁氏幹
大方、この3人が佐竹方として毎回立ちはだかる様になる。
……というか、氏治の矛先が、寝返った資正らに向かってるだけとも言える。
もともと戦に勝てないのは先の通りだが、1574年には土浦城までも落とされて、
氏治は一時常陸から追い出される。
ころころ落ちる小田城と違って、土浦城が落ちたことは無かった。
もはやそれほどまでに、軍事力に差が出てしまっていたのだ。
が、氏治にとっての最期のチャンスが訪れる。DQN政宗公の登場である。
勢いに乗る伊達に、佐竹は全力で当たらねばならず、
反対側に位置する、南の氏治に構ってる余裕がなくなったのだ。
今なら手薄。しかも伊達と挟撃が出来る!ということで、兵を起こしたのだが……。
???「待てゐ!」
小田城にて立ちはだかるのは、資正(もうすぐ寿命)ら、太田&梶原軍団だった。
小田城に篭城する政景、そこへ後詰する資正、その間に挟まれる氏治という
見事な後詰の図にて、小田城はついに落城しなかった。
そして氏治は秀吉により改易。
資正自身も、小田原征伐終了後しばらくして死去。
よく書かれる太田資正の列伝だと、北条と戦っているところが強調されがちで、
後年ずっと氏治キラーだったことはあんまり書かれないので、知らなかった人も
多いかと。以上です。
381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 12:56:45 ID:gGwzkcnU
>>378-379
猫の手は借りても犬の手は借りるなという教訓ですね
382 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 13:11:38 ID:HMX+2DTa
たいへんよ!武田北条連合軍の攻撃で松山城が降伏しちゃったみたいで、
後詰めにきた謙信ちゃんがキレたみたい…三楽ちゃんが殺されそうだわ
383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:45:57 ID:yIGUwd5b
常陸小田氏と言われてパッと思いつくのは小田氏治と
後は流れ着いた北畠親房だなぁ
龍造寺に攻められた肥前小田氏って常陸のと関係あったっけ?
384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 13:52:01 ID:1l2mm3HS
>>383
一応常陸小田氏から分かれた家>肥前小田氏
11代当主の小田持家の弟、直家の流れ。
385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:01:30 ID:/Dz+FLyU
>龍造寺に攻められた肥前小田氏
もうちょっと他の紹介の仕方あるだろw
386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:07:45 ID:1l2mm3HS
肥前小田氏も、少弐氏が滅んだ後は大友と龍造寺の間をあっちに付いたりこっちに付いたりした挙句、
龍造寺隆信に、いかにも隆信らしいやり方で滅ぼされてるな。
387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:25:13 ID:B85SO6OL
城ごと寝返り…
なんと太田さんの悪い話だったか。
388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:27:14 ID:8SzD3RGW
いくら戦国時代だからってこれはひどい
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:35:07 ID:Cos3ydHm
信秀「信頼を裏切って城を取るとか、人間として最低だな」
390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:40:47 ID:gtSsrHk+
しかし見てて思うんだが城は奪われても
よくぞ謀殺されたり暗殺されたり下克上されたりしなかったよなw
するほどのものではないと思われていたのかもしれないが
隣の国に直家さんや晴信さんやまー君やそのおじさんがいたら
氏治さん安らかに死ねなかったんじゃないかと思う……
391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:45:33 ID:UFgkSI3/
軒を貸したら母屋を獲られたでござる・・・
母屋を獲り返そうとしたらセコムされてたでござる・・・・
392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 14:55:34 ID:ZsZsPLNJ
小田氏治「ワシの城返して!返して!!」
篭城中の太田息子「セコム呼びますね^^」
セコム監視センターの太田父「天庵さん困るんですよね、もうあなたのものじゃないんですから。
早々にご退去願いましょうか」
393 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 15:17:37 ID:NACAS0Ot
>391
資正「氏治さん、セコムしてますかwセコムしてなかったんですかwww」
氏治様は本当に家臣に恵まれたってことでしょうね。
なんでも、家臣の菅谷一族は、霞ヶ浦周辺の水運利権を支配してた様で、
結構その財力も、小田の『土浦城から反撃』に相当役立っていたの
ではないかと。
当時は霞ヶ浦及び周囲の川が、今と比べられないほど広かったらしく、
土浦城は地形的にも攻め難い。
普通に土浦が居城で良いような。
あと、資正様が実際どう考えてこの行動をしたのかは不明。
仕えてみて、この当主じゃ岩槻奪還は不可能と思ったのか、
書いたように、『最初から』何かしら手土産を得るつもりで仕えたのか。
はたまた全く別で、小田に仕官せず、既に佐竹が落としていた城を、
佐竹に仕官してきた2人に与えたのが脚色されたとか、色々な説がある様子。
ともかく、一つ言えるのは、
小田城奪還に固執する小田氏治と、
岩槻城奪還に固執する太田資正とが戦った。
妙な運命を感じるのは絶対気のせいじゃないwww
394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 16:26:17 ID:gGwzkcnU
三楽斎には同情していたんだが、
もう同情できない!w
395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 16:31:33 ID:gU2QPOpO
英雄だな、、、、ある意味。
396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:11:04 ID:yR/vczHT
>>379の小田城見ると、三楽さんも物凄い気合い入れて縄張りしたもんだよな。
氏治さんもさぞかし驚いたことだろう。
397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:17:10 ID:B3QAcWyn
>>396
コードギアスの紅蓮聖天八極式を見た時のラクシャータみたいな感じかな?
398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 17:44:50 ID:av5rx39c
>>393
土浦城が毎度毎度小田城奪還の拠点になってるあたり、
城としては充分だろうから、
小田城見限ってそっちを本拠にしたほうが理にかなってるな。
もっとも小田城をあっさり捨ててたら、
氏治が今ここまで注目されることは絶対になかっただろうがw
399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:06:36 ID:eH3qRvds
プチ小田氏治ブームだw
上のリンク先の小田城の写真や図面を見た限り
とても戦略的に価値があると思えないな。
まるで住居のよう。俺んち返せよ!って感じだったのかなw
400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:16:34 ID:TO97nCxg
やはり名字の地だからからかねぇ
401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 18:24:29 ID:1l2mm3HS
>>400
後、地元の領民の小田氏への支持が強かったらしい。
攻め取られても相手に年貢提出を拒否したり。
家臣だけじゃなく領民からも、不思議なくらい慕われていたようだ。>氏治
402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:05:39 ID:M9e38msO
>399
小田城が筑波山塊の南端の麓で、土浦城が霞ヶ浦の岸にあるから、
この2点間を制圧されると、南北交通は完全に遮断されるし、
東西の交通だって20km以上北の現在のJR水戸線が通っているあたりまで
回り道しないといけなくなる。
佐竹氏が下野、下総の反北条勢力と協力しようとするなら、
小田城の戦略的な価値は非常に大きいといえる。
403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/20(金) 19:41:46 ID:NACAS0Ot
>>402
その両城の中間に、地味に藤沢城もあったりする。
どうも小田庶流・家臣の守る城郭がそれなりの数は各地あったみたい。
海老ヶ島城もそうだけど、木田余城とかはそれなりの城郭だったみたい
……と、フォローしようと思ったけどダメだwww
なぜなら、調べたらば名が挙がってる城以外は、大体が城っていうか、
小田城初期と変わらないっぽい、館をちょいと強化した程度ってことが
分かったから。頼みますよ氏治様www
とすると、片野・柿岡城は小田の『主だった城』に数えるような城
だったんだろう。
……しっかし、地図見てると、片野・柿岡って相当面倒な部分
取られたんやなあと思うぜよ。
404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:42:28 ID:x5IUdn2I
土浦から、古河や結城に直通する場所だな、小田城
関東諸侯にとって、争奪の地になるだけの価値はあったろう
405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 19:46:37 ID:WqANowmX
名字が小田の俺としては感涙せざるを得ない流れ
406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 20:01:04 ID:hp9iF3FP
>>397
その例え分かる人にしか分からんだろw俺はなるほどって思ったけど
てか、太田家は築城や縄張りに精通してたのかな
祖父の道灌も江戸城で有名だし
丹羽さん家なんかも親子で築城してるから家ごとに技術を受け継いでるのか
407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/20(金) 20:44:44 ID:iY21lQaa
城をわざと浪人に取らせる→鍛えたい武将で攻めて勲功upっていうのを思い出した。
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コメント
名無しさん@お腹いっぱい。 | URL | -
いまだとつくばって常陸から孤立してるよな
東京からは電車でいけるけど、
水戸・石岡・土浦の常磐線とはつながってなくて
ぐるっと南からまわんないと行けない
( 2009年11月21日 01:43 )
人間七七四年 | URL | -
個人的には、もしもこれで寝返らなかったら…ってifを考えると興味深いかな。
もうちょい仕えてたら案外、菅谷や領民の様に、氏治の魅力に気付いてたりw
果たして大局に影響を与えるかどうか、微妙なところだが。
城を改修して、支城網整えて…犬の調教してw
…でも、例え氏治が常陸の覇者(自称)になったとしても、結局史実をなぞるかの様に、
おおよそ小田原征伐で北条に付いたり、
関ヶ原・大坂の陣で、西軍・豊臣に付いたりしちゃうんだろうなあ。多分。
( 2009年11月23日 22:38 )
人間七七四年 | URL | LkZag.iM
三楽斎は岩槻城奪還に執念を燃やした、と言われてるケド、越相同盟の際に謙信が氏康に提示した同盟条件「三楽斎を岩槻に戻す事」というのを三楽斎自身が無視してるんだよね。
謙信は何度も何度も手紙を書いて「北条との和睦に納得してくれ」「佐竹と一緒に自分に会いに来てくれ」と頼んでるし、終いには三楽斎の妹にまで、何通も手紙を出して「兄貴を説得してくれ」と言ってる。
岩槻時代は意外にも北条に寝返る事もちょくちょくあったみたいだケド、長男に裏切られて、しかもその長男が速攻で戦死して、北条の息子が太田氏を継いで……という一連の流れでガッチガチのアンチ北条になってしまったようで。
岩槻に戻る事よりも打倒北条、という感じだったようですよ?
( 2010年03月01日 23:19 [Edit] )
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