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蒲生郷安「良き者」を連れ帰って何が悪い?

2009年11月24日 00:20

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/23(月) 15:35:01 ID:90mdE6d7
文禄元年(1592)、蒲生氏郷は朝鮮の陣に備え、会津から肥前名護屋に行くことになった。
出立に及んで氏郷は重臣の蒲生左文郷可を呼び、米沢城代として執政の職に着くよう
申し渡した。しかし、郷可はこれを断った。
「ならば、誰か他にお前の代わりが務まる者がおるのか?」
「四郎兵衛がよろしいかと。」

蒲生四郎兵衛郷安は、郷可と仲が悪かった。郷可がそれを置いて郷安を推挙したことを
氏郷は良しとして、米沢城を郷安に授けた。
しかし一抹の不安を覚えた氏郷は、米沢に近い中山城を郷可に授け、
「当家に敵対していた者でも、良き者であれば召抱えよ。」と二人に言い、九州へ向かった。

しばらくして後、郷可の家臣が米沢城下を通り過ぎようとした時、郷安の手の者に囲まれ
米沢城に拉致されるという事件が起きた。
「おのれ、四郎兵衛!殿に推挙した恩も忘れ、何をするか!?」
「ふん、わしは殿の仰せに従ったまでよ。殿は「良き者を召抱えよ」と申されたではないか。
わしの城下にいた「良き者」を城に連れ帰って何が悪い?」
「貴様ァ――――ッ!!」

激怒した郷可は、実弟の上坂源之丞、郎党の上坂左介、松下半兵衛、若宮三郎兵衛、
松田七兵衛、寄騎の布沢勝左衛門、伊南弥五郎、横田某などに兵を集めさせた上に、
“米沢からの攻撃に備えるために”中山城を改築した。
一触即発の自体に蒲生郷成・真令(備中)らが調停に乗り出し、事は一応の決着を見た。

3年後の文禄4年、氏郷の急逝後、郷安は政務を独占し、これを批判した氏郷の近習筆頭
だった亘理八右衛門を郷安が暗殺すると、再び他の重臣と郷安は対立。
この騒ぎが太閤秀吉の耳に達し、蒲生家は会津92万石から宇都宮12万石に大減封され、
家臣団は散り散りとなった。

信濃なる 浅間の岳は 何思ふ 我のみ胸を 焦がすと思へば

塾長不在の蒲生男塾の話。↑は、氏郷が名護屋へ向かう道中で活火山・浅間山を見て
詠んだ句と伝わる。




533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/23(月) 18:19:03 ID:t5qZ3gEQ
>>527
蒲生姓もらった人達同士かな
しかし急造の大所帯だけに、まるで家中の和がない・・w

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