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赤星統家の顛末

2009年12月11日 00:16

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 00:54:05 ID:vj95kYP0
阪神赤星の引退のニュースをみて、多分その御先祖方面に当たる人の事を
思い出したので書いてみる。


肥後隈府城主、赤星統家と、同国の隈部城主、隈部親永は、元々は同じ菊池氏であったものの、
肥後の名族菊池氏の正統を争い、両者の関係は非常に悪かった。

西九州の戦乱も、島津、龍造寺の二家の争いに収束しようとしていた頃、
赤星統家は龍造寺隆信の肥後侵攻の際に彼に服属。隈府城を引渡し、
嫡男と娘を人質に出した。

しかし龍造寺隆信は、肥後において前より服属していた隈部親永を露骨に重視し、
この後ろ盾により肥後での赤星家の勢力は日に日に圧迫されていた。

統家はこれを不快とし、佐賀への参勤を渋った。
これを見た隈部親永は、『赤星は龍造寺殿と敵対している島津と密かにつながっている。
彼が参勤しないのはそのためだ』と言う噂を流した。
隆信は怒り、赤星の弁明を待つことなく、天正11年(1583)、人質であった赤星の幼い子二人を、
山門郡竹井原にて磔にかけた。
嫡男の新六郎14才、娘は8才であったと言う。

赤星はこれに激しく憤り、龍造寺を離脱、有馬氏を介して、島津氏に服属した。

翌天正12年、赤星統家は、有馬・島津連合軍の一員として、赤装束に縄襷(なわだすき)という
出で立ちで、50人の兵とともに沖田畷の戦いに参加。先鋒として大いに活躍。
そしてご存知のようにこの戦いで隆信は敗亡、赤星統家は、子の恨みを晴らしたのだ。


…が、このとき島津に接近しすぎたのが仇となり、天正14年(1586)、豊臣秀吉の九州征伐がおこり
島津が敗れると、赤星家再興の望みはついに絶たれ、その居城隈府城に帰る事は、二度と無かった。

ちなみに、赤星統家と争った隈部親永も、天正15年(1587)の肥後国人一気に参加し、
敗れた後、切腹。
古代より肥後の大族として知られ、南北朝でも南朝方として天下に名を成した肥後菊池氏の勢力は、
ここに潰え去ったのである。

そんな、名族菊池氏の、最末期のお話。



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 01:01:56 ID:W4FjVivc
>>925
隈部は菊池ではなく大和源氏の出
阿蘇の重臣、甲斐の方が菊池一族

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 01:29:03 ID:vj95kYP0
>>926
隈部って途中で菊池の血が入ってなかったっけ?
勘違いしたかな?

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/10(木) 02:04:20 ID:vj95kYP0
隈部は出自はともかく、何代にも渡って菊池氏と血縁関係を結んでて、
一応一族扱いされてたってことでいいみたい。

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | JalddpaA

    そういえば「どついたるねん」赤井英和も丹波赤井氏の縁だってね。いろいろあるもんだ。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    旧スネ夫役のあの人も・・・

  3. 人間七七四年 | URL | -

    1番有名なのはDQN四天王のあの人の子孫で総理やったあの人かなw
    あと松田聖子は筑後蒲池氏の子孫らしい。その縁か竜造寺の名前出すと不機嫌になったそうだ(蒲池氏の当主で耳川で死んだ人の次の人が竜造寺隆信に殺されたことがある)←名前失念したスマソ…

  4. 人間七七四年 | URL | -

    まーくんの子孫も芸人になってたりするし
    意外と多いよなぁ・・・

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