70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:03:07 ID:MUPBnWCG
天文八年のこと。
権威付けのためか、伊予の河野通直は幕府御相伴衆になるべく、働きかけを行った。
さて、これが結構大変である。
通直は幕府中枢にパイプがなかったらしい。
どういう経緯か、名門公卿・近衛尚通の正室が動いている。
彼女は幕府内談衆の大舘晴光へこの話を持ちかける。
晴光は父親で、同じく内談衆として幕政を動かす大舘常興へ頼んだ。
常興は、将軍・足利義晴を擁立した実力者、近江の六角定頼へ仲介。
ここで初めて、御相伴衆就任についての検討が始まる。
定頼も加わった会議では、河野氏を加えることに反対意見も出たものの、義晴の存念次第と決まる。
この結果は定頼から常興へ伝えられ、常興は晴光に書状を送り、そして尚道正室へ知らされた。
翌年、通直が御相伴衆に任じられることが決定。
通直は御礼として義晴へ太刀と二千疋、嫡男の義輝にも馬と太刀を進上した。
こうして、ようやく通直は念願を果たしたのであった。
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:37:32 ID:M5JKWG2p
権威付けにしてもその当時の室町幕府それほど権威あったのかな?
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:48:13 ID:NF0/lZXv
>>71
実権はともかくとしても、権威はそこそこ生きていたみたいだよ。
その幕府の権威ゆえに、三好長慶や信長だって苦労することになるわけだし
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 20:15:49 ID:DwFBCdhh
河野通直は河野氏の中では傍流(一説には来島通康の子)であり、
永禄11年(1568)に伊予守護、河野家当主となるものの、本来ならその権利は無かった。
この当時将軍直臣というものは、守護権力の掣肘を受けない権利があり、
通直は守護権力に対する自己の立場の強化も狙って、幕府御相伴衆への就任を
考えたのでしょう。
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:27:15 ID:A3F3qu0x
>>73の通直と>>70の通直は同一人物ちゃう。河野氏は通直さんばっかりなので間違えないでね!
当主だけで通直3人、通宣2人いるのですよ……。
今の研究だと
1.教通(通直とも、応仁の乱の頃の人)
2.通宣(刑部大夫、何故か来島で死去)
3.通直(弾正少弼、>>70の人、晴通と争って負ける、来島通康に娘を嫁がせる)、>>70はこの辺
4.晴通(かつては分家出身と言われたが今では3.の通直の実子と言われる)
5.通直(数年後の晴通の病死?暗殺?で3の通直復帰)
6.通宣(左京大夫、晴通の弟、同じく分家出身と言われたが、今では3.の通直実子と言われる)
7.通直(伊予守、かつては庶流池原通吉実子と言われたが、最近では来島通康実子説と6.の通宣実子説が有力、かな)
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:29:22 ID:DwFBCdhh
>>75
おおお、勘違いしていたか…
しかし何とややこしいw
77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:37:48 ID:A3F3qu0x
>>76
すまぬ、もう一人通直さん忘れてた。
教通の曾祖父、通尭も通直と名乗ったらしい。
通尭さんは戦国時代じゃないが超がつく苦労人。
子供の頃、同じ北朝のはずなのに隣の細川頼之に攻め込まれ父が討ち死に。
家臣に助けられて九州に落ち延びて南朝に転向。
九州で活躍の後、満を持して南朝の助けも得て伊予に帰国。
伊予を抑えると北朝に戻って伊予守護職を義満さんからゲット。
ちょうど中央では細川頼之が失脚。
といっても軍事力山盛りの頼之にやっぱり攻め込まれて伊予の世田山で討ち死に。
幼い子は何とか義満のおかげで伊予守護職を確保したけど……。
伊予は戦国時代の前から守護権力が怪しかったという全然よくない話でした。
スマソ
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 08:19:49 ID:7bT5VcCl
>>77
地元の話題ktkr
世田山は新田義貞の弟が北朝の軍に敗れて自刃したりしてるね。
天文八年のこと。
権威付けのためか、伊予の河野通直は幕府御相伴衆になるべく、働きかけを行った。
さて、これが結構大変である。
通直は幕府中枢にパイプがなかったらしい。
どういう経緯か、名門公卿・近衛尚通の正室が動いている。
彼女は幕府内談衆の大舘晴光へこの話を持ちかける。
晴光は父親で、同じく内談衆として幕政を動かす大舘常興へ頼んだ。
常興は、将軍・足利義晴を擁立した実力者、近江の六角定頼へ仲介。
ここで初めて、御相伴衆就任についての検討が始まる。
定頼も加わった会議では、河野氏を加えることに反対意見も出たものの、義晴の存念次第と決まる。
この結果は定頼から常興へ伝えられ、常興は晴光に書状を送り、そして尚道正室へ知らされた。
翌年、通直が御相伴衆に任じられることが決定。
通直は御礼として義晴へ太刀と二千疋、嫡男の義輝にも馬と太刀を進上した。
こうして、ようやく通直は念願を果たしたのであった。
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:37:32 ID:M5JKWG2p
権威付けにしてもその当時の室町幕府それほど権威あったのかな?
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 19:48:13 ID:NF0/lZXv
>>71
実権はともかくとしても、権威はそこそこ生きていたみたいだよ。
その幕府の権威ゆえに、三好長慶や信長だって苦労することになるわけだし
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 20:15:49 ID:DwFBCdhh
河野通直は河野氏の中では傍流(一説には来島通康の子)であり、
永禄11年(1568)に伊予守護、河野家当主となるものの、本来ならその権利は無かった。
この当時将軍直臣というものは、守護権力の掣肘を受けない権利があり、
通直は守護権力に対する自己の立場の強化も狙って、幕府御相伴衆への就任を
考えたのでしょう。
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:27:15 ID:A3F3qu0x
>>73の通直と>>70の通直は同一人物ちゃう。河野氏は通直さんばっかりなので間違えないでね!
当主だけで通直3人、通宣2人いるのですよ……。
今の研究だと
1.教通(通直とも、応仁の乱の頃の人)
2.通宣(刑部大夫、何故か来島で死去)
3.通直(弾正少弼、>>70の人、晴通と争って負ける、来島通康に娘を嫁がせる)、>>70はこの辺
4.晴通(かつては分家出身と言われたが今では3.の通直の実子と言われる)
5.通直(数年後の晴通の病死?暗殺?で3の通直復帰)
6.通宣(左京大夫、晴通の弟、同じく分家出身と言われたが、今では3.の通直実子と言われる)
7.通直(伊予守、かつては庶流池原通吉実子と言われたが、最近では来島通康実子説と6.の通宣実子説が有力、かな)
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:29:22 ID:DwFBCdhh
>>75
おおお、勘違いしていたか…
しかし何とややこしいw
77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/12(土) 21:37:48 ID:A3F3qu0x
>>76
すまぬ、もう一人通直さん忘れてた。
教通の曾祖父、通尭も通直と名乗ったらしい。
通尭さんは戦国時代じゃないが超がつく苦労人。
子供の頃、同じ北朝のはずなのに隣の細川頼之に攻め込まれ父が討ち死に。
家臣に助けられて九州に落ち延びて南朝に転向。
九州で活躍の後、満を持して南朝の助けも得て伊予に帰国。
伊予を抑えると北朝に戻って伊予守護職を義満さんからゲット。
ちょうど中央では細川頼之が失脚。
といっても軍事力山盛りの頼之にやっぱり攻め込まれて伊予の世田山で討ち死に。
幼い子は何とか義満のおかげで伊予守護職を確保したけど……。
伊予は戦国時代の前から守護権力が怪しかったという全然よくない話でした。
スマソ
79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/13(日) 08:19:49 ID:7bT5VcCl
>>77
地元の話題ktkr
世田山は新田義貞の弟が北朝の軍に敗れて自刃したりしてるね。
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コメント
名無しさん@お腹いっぱい。 | URL | -
大道直、小通直、孫通直、後通直
片倉さんちの小十郎みたいなもんだったのか?
( 2009年12月13日 17:53 )
A3F3qu0x特定した。 | URL | -
ごめん嘘。一回言ってみたかっただけ。
ただの予想だしあの気違いじみた文面じゃない。
ほんとごめん。
( 2009年12月15日 10:55 )
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