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豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった

2009年12月20日 00:01

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/19(土) 19:53:38 ID:q1nN+eV0
豊臣秀次は武具の好みに拘りのある男であった。

金の御幣のまといと言えば、柴田勝家のそれが有名であったが、「あれは大変見事である。
あれにすべき。」と、御幣をまといとした。

甲冑は、「様々あるが、日根野弘就の唐冠の形のものほど見事な物は無い。」と、
これを所望した。日野根、これを拒みがたく献上したが、この時

「これは我が家に秘蔵の甲冑ではございますが、貴き命令により献上仕ります。
ただしこの甲冑は今まで、押し付け(鎧の後部、背中の部分)を見せた事の無い鎧であります。
この意味をどうかお忘れないように。」

そう、念を押した。

その後、木村常陸介の鳥毛の羽織を所望し、これを陣羽織とし、指物は金の棒とした。

さて、天正十二年四月、小牧長久手の戦いにおいて秀次は三河中入りの大将として、
例のまとい指物甲冑羽織にて出陣した。その後の大敗、皆知るところであるが、
この折、唐冠の冑鳥毛の羽織を着ながら甚だ見苦しい有様であったと、人々に言いそやされた。

秀次はこれを大変に恥じ、自分が任を務められなかった事を悔い、この時より、鷹狩り狩猟の時は
勿論の事、詩歌の会、酒宴、遊山のような時であっても供の者に必ず具足箱を持たせ、
その行動も剛強をもっぱらにしたのだという。

が、このように武張った事が後に、殺生関白の汚名に繋がる事にもなる。

秀次の、その思いと噛みあわぬ結果、の話である。






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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    切ねえ…
    なんか色々と、納得しますた。
    この頃日根野さん秀次に仕えてたのか。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉自身が「武辺をちゃんとしろ」って言ったくせに・・・

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