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『恍惚の人』

2010年01月06日 00:05

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 00:56:39 ID:iOLtVnQl
天文元年(1532)秋、七夜の月の下、阿波三好川の川辺で水垢離をする女性がいた。
「…なにとぞ、三好七代のうちに天下を持たせたまえ……」

彼女の夫、三好元長は細川晴元の政権奪取に多大な貢献を為したが、その勢力を恐れた
晴元は、一向宗の力を借りて元長を堺の顕本寺に攻め、殺害した。
元長の祖父・之長も細川管領家の家督争いに介入し、永正6年(1509)、如意ヶ嶽の戦いで
長男であり元長の父である長秀を失った。さらに永正17年(1520)、京等持院で敗れ、
次男・三男とともに処刑された。

小笠原分家の義長が阿波三好郡に住したのに始まる三好家は、三代・之長から三世代に
渡って非業の死を遂げたことになる。
これを憤った元長の妻は、「自分の孫の代までに、三好に天下を取らせてくれ。」と願った。

彼女の願いは、天に通じた。
四男は、十河家の養子となって一存と名乗り、『鬼十河』と呼ばれ、恐れられた。
三男は、安宅家の養子となって冬康と名乗り、淡路の水軍を支配した。
次男は、三好義賢または物外軒実休と名乗り、阿波・讃岐を牛耳った。
そして長男は、修理大夫長慶と名乗り、仇敵・細川晴元を追放して幕府の実権を掌握し、
彼を『天下人』と呼ぶ者さえいた。

だが、天は三好家の男たちの運命を変えようとはしなかった。
永禄4年(1561)、十河一存が、松永久秀と湯治に出かけた際、落馬がもとで死んだ。
永禄5年(1562)、三好実休が、畠山高政との戦いで戦国武将として初めて射殺された。
永禄6年(1563)、長慶の嫡男・義興が、芥川城で変死を遂げた。

相次ぐ肉親の死に長慶の心身は病み、永禄7年(1564)5月、あろうことか久秀の讒言により
三弟・冬康を誅殺した。この暴挙はむしろ長慶の苦悩を深め、同年7月、長慶は世を去った。


作家・有吉佐和子は、認知症に正面から取り組んだ意欲作の題に悩んでいた。さまざまな
文献に当たるうち、江戸後期の大学者・頼山陽が書いた『日本外史』の、三好長慶について
書いた記事に目が引かれた。

「時に長慶、老いて病み恍惚(とぼける・ほうける)として人を知らず。政を久秀に委ねる。」

その小説、『恍惚の人』は大ベストセラーとなり、『恍惚老人』は当時の流行語になった。




493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 03:24:35 ID:rWk2kxsi
>>492
三好氏の一族ってのは長慶はじめ優れた武将ぞろいなんだけど、「運」というものには
とことん見放されている感があるんだよね。

一応長慶は晩年まで飯盛山で裁許をやってるんだけど(久秀と長逸で飯盛山に訴訟を取り次ぎしてる)、
後世に描かれた史料の描写なんかを見ると、嫡子を亡くして以来は40代前半にして
めっきり老け込んでしまった印象を受ける。

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    長慶が冬康を誅殺したのは。義興死後に後継となった三好義継に権力を持たせる為に、人望のある冬康を敢えて殺した。と言う話もあるようです。

    もし、この話が本当なら。実力の無い人間を持ち上げる為に殺された冬康さんカワイソス・・・。

    もう一つ。松永久秀が罪をでっち上げて殺し、その死後その事を知った長慶は衰弱して行ったともあります。何にしても三好家に取って重要人物なのは確実ですね。

  2. 人間六七四年 | URL | -

    歴史小説や時代小説や仮想戦記でもないのに戦国大名が近代文学の題材にされることにびっくりした。
    世の中の自称「歴女」諸君に告ぐ、それを名乗るなら此処まで研究してからにしないか。

  3. 人間七七四年 | URL | HfMzn2gY

    いや、「題材」ではなく「タイトル」に悩んでいろいろ当たっていた時読んでた文献からたまたましっくり来る一文を見つけたってだけで、別に有吉佐和子は三好長慶を研究してたわけじゃないんだが…というか、故事や文献の一節に基づいてタイトルを付けるのは結構普通にあることだよ
    闇雲に「歴女」とやらを批判する前にまず自分が調べてみような

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