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高橋紹運の最後

2010年01月09日 00:04

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/08(金) 09:21:11 ID:eES7IsMi
天正14年(1586年)筑後を攻略した島津軍は紹運の籠る岩屋城へ
10万の大軍で押し寄せ、降伏勧告を行ったが紹運はこれを拒絶。
宗茂の篭る立花山城、次男・高橋統増の篭る宝満山城へ
退却する提案にも首を縦に振ることはなかった。

7月14日、島津勢は6万の軍勢で岩屋城攻めを開始した。対する紹運の兵は700人余りであった。
しかし寡兵でありながらも高橋勢の奮戦は凄まじく、
26日になっても島津勢は城の外郭を破ったにすぎなかった。
攻め方の犠牲者があまりにも多いことから島津忠長は再度降伏勧告を行い
講和に近い妥協案を持ちかけたがそれも拒絶。

島津軍が紹運へ最後の降伏勧告をする際、使者の新納蔵人という者と
こんなやりとりがあったという。
新納蔵人
「長年に渡る紹運殿の忠義、そして今その死をもって城を守らんとする
 お覚悟は敵ながらまことお見事です。
 しかしあなたの主君・大友親子はそれに比べてどうでしょうか?
 耳川での戦いを始め無用な争いを行い、結果多くの家臣が次々と叛き
 今や豊後一国を治める事さえ思うに任せぬ有様です。
 対して我が主君・義久様は信義を以って人に接し、民百姓の暮らしを安んじようしております。
 今や九州の大半を居ながらにして治め、統一する勢いです。
 これまでの紹運殿のお働きにて武門の意地も十分立ちましょう。
 城兵の助命と紹運殿の本領安堵は取り計らいます故、
 ここは降伏されて城を明け渡されてはいかがですか?」

これに答えて紹運
「生者必滅、盛者必衰は世の習いでありましょう。
 大友家は源頼朝公より豊後の地を治める大命を賜って以来、
 武名衰えたりと言えども家はまだ健在でござる。
 対して島津殿はというと以前は周辺の勢力に攻められ、一国さえも治めかねておりましたな。
 今少し勢いを得たと言っても豊臣公が九州に進軍の折には島津家の滅亡も有り得ましょう。
 新納殿も島津家が危急存亡の際には主家を見捨てて御身のみ生き長らえるおつもりか?
 主家が盛んなる時に忠励み働く者は多いが、衰えたる時に一命を捨てる者は稀ではあります。
 が、士たるものその恩義を忘れてしまえば畜生に成り下がりましょう。」

この痛烈な返答に新納も言葉無く、話を聞いた島津勢からも感嘆の声が上がったという。

その日の夕刻、今度は荘厳寺という寺の快心和尚を遣わして有利な条件を提示してきた。
「もはや降伏しろとは申しませぬ。ただ、紹運殿の働きは比類ないものです。
 そこで和議を結ばれるというのはいかがでしょうか?
 岩屋城、立花山城、宝満山城の三城の所領は保障いたします。
 実子のうちお1人を人質に差し出して頂ければ島津軍は速やかに陣を退きしょう。
 これ以上の戦いはお互いの兵や民にとっても無益のはず。
 今後の事は戦後また話し合うとして、今はお互い兵を退くべきかと存じます。」

これに答えて紹運
「息子達に和議を結ぼうなどと相談すればそれがしは面目を失います。
 人の命運はいつか必ず尽きる時が参ります。
 それを恐れて命を惜しんだとあっては末代までの恥でござる。
 大友家は既に多くの将兵を失っています故、この城への援軍は来ないでしょう。
 豊臣公の援軍も間に合うかどうかわかりません。 
 我々は一同皆、城を枕に悉く討死する覚悟ゆえ、島津殿におかれましては
 心置きなくこの城を攻め取られるがよろしかろうとお伝えくだされ。」

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/08(金) 09:22:58 ID:eES7IsMi
翌27日の明け方、総攻撃が開始された。
紹運は曲輪の高櫓から全軍の指揮を取り、数珠を片手に死者を弔いながら奮戦したが
水の手が断たれると自ら打って出て落城寸前の曲輪で自刃した。
介錯は吉野左京介が行い彼もまたその刀で後を追ったと言われている。
岩屋城では守兵700人余りの全てが討死、もしくは割腹して果てた。
島津勢の損害は討死3000人以上、手負いが1500人以上であったという。

辞世の句は「流れての 末の世遠く 埋(うず)もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水」
     「屍(かばね)おば 岩屋の苔に 埋みてぞ 雲ゐの空に 名を止むべき」

戦後、紹運の遺体を島津軍の陣中に運び諸将が居並ぶ中調べてみると
具足の引合せに寄せ手の大将・島津忠長宛ての手紙があった。
その手紙には「是一途、義によって候。諒承願い奉る。」
(これもひとえに義によってである。理解して頂きたい。)と書いてあった。
これを読んだ忠長は、床几を降りて地面に突伏し
「たぐい稀なる勇将を殺してしまったものよ。この人と友であったなら
 いかばかり心涼しかったろう。弓矢を取る身ほど恨めしいものはない。」

と嘆息し諸将ともども涙を流して遺体を丁重に弔ったという。



812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/08(金) 16:56:04 ID:ywHt+lvj
紹運さんは、息子に厳しく教育したため、面子があるから不利な状況でも逃げられないんだね。
秀吉軍が来るまでゲリラ作戦で時間を稼いだ方が効率が良かったけど・・・

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    島津もさすが鎌倉以来の名家だなぁ。
    普段は真田の親父やクロカンの人を
    食った智謀の話が痛快だと思うが、
    こういう命のやり取りしている場所で
    互いを尊敬しあった粋な行動は素直に
    いい話とおもえるな。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    マジレススマソなんだが。
    この話と紹運さんの面子は関係無いんじゃないかな?厳しく育てるのは本来当たり前の事だし。大友家自体にも忠義を示したかったのでは?

    ゲリラ戦を展開しようと、勢いが有れば何時かは押し込められる。ゲリラ戦だけで戦争は勝てない。例え仕掛けようとも。時間稼ぎである以上、何処かで必ず籠城戦はしなければならなかった。

    それの時の犠牲に対して、息子達を巻きこみたく無かった。ってのが今回の行動じゃないのかね?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    >812ほど、残念な解釈は無いな。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    これは泣ける

  5. 人間七七四年 | URL | -

    出展は演義物のたぐいなのかしらん?
    セリフがいちいち臭いw

  6. | |

    管理人のみ閲覧できます

    このコメントは管理人のみ閲覧できます

  7. 人間七七四年 | URL | -

    清水宗治みたいに家臣の命を助けるために自刃、という選択肢は無かったのだろうか?

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ↑多分…、それだと何の解決にもならないかと…。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    息子もイケメンだが父親もイケメンすぎるな
    泣けた

  10. 人間七七四年 | URL | -

    いかな勢い、いかな命運も必ず尽きるのだから
    それを惜しまず「カッコ良く」生きようあるいは死のう、
    って考えに殉ずることが出来るのがすごいな。
    頭じゃわかっててもなかなかできないか、
    あるいは「だったらどう生きても一緒じゃん」と
    やけのやんぱちになるしか俺はできねぇ。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ボンバーマンに爪の垢を煎じて飲ませたい武将1位

  12.   | URL | X.Av9vec

    この後宝満山城攻めで次男の統増は同様に降伏勧告を受け、家臣が統増夫妻を立花山城へ無事に送り届ける事を条件に城を明け渡すが島津に捕まるんだよね。
    後に朝鮮で活躍するから猛将と言われがちの統増であるが、父と比べてこの時はちょっと情けなかった気がするな。

  13.   | URL | -

    出展は筑前国続風土記じゃないの?
    1688年頃の作と言われているから以外と近いらしい。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    1431年4月 大内盛見の筑前出兵で落城。
    1431年7月 大友・小弐の連合軍が奪還 
    1445年8月 大内教弘の筑前出兵によってふたたび陥落
    1469年頃  応仁の乱のどさくさで大友家が奪還
    1478年9月 大内政弘の侵攻で降伏開城し立花家が大内に一時従属
    1532年3月 大内方の温科盛長に攻められ落城し立花家がまた大内に従属
    1565年7月 立花鑑載が大友家に反乱を起こすが戸次道雪等に敗れて降伏
    1568年7月 鑑載が毛利の援軍を受け再度反乱を起こすが戸次道雪等に敗れ自刃
    1569年5月 毛利軍の攻撃により立花城開城
    1569年11月 毛利軍の九州撤退により城兵が降伏開城


    これって岩屋城の事じゃなく、宗茂や如水が岩屋城から退いて移動を勧めた立花山城。
    こんなに度々落城してる立花山城への移動を勧めらる岩屋城って…。

    決死にも程がある。

  15. B・B | URL | -

    >812の解釈は本当に残念だな。

    生き方を曲げたくない、ただそれだけであろうに・・・。
    そもそも6万近くの軍に囲まれればもはや城を出ることすら困難だと思われ。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    六万の大軍相手に城から逃げてゲリラ戦する方が効率良いだと…?

    つーか、管理人さんはなんで>812みたいなズレたコメント抜粋してるん?

  17. 人間七七四年 | URL | -

    主観的にコメント抜粋してないからでしょ。別にズレてるから排斥する必要無いんじゃない?

  18. 人間七七四年 | URL | -

    岩屋城の周辺がどういう風だったのかは知らんが、もっと山間部で川とかいっぱいあったのならうまく立ち回れたのだろうか・・・?
    それでもさすがに戦力差1対90近いから無理か・・・真田vs北条&徳川よりもひどい

    ・・・・・・・・・

    矢沢頼綱「俺の槍・・・使うか?」

  19. 人間七七四年 | URL | cgjt7cEg

    数多の名将を輩出した戦国時代ですが、私はその中でも高橋紹運公が一番好きです。
    地元(福岡)を代表する英雄として、心から誇りに思っております。
    紹運公の潔い討死を理解できない方による、大変残念なコメントもありますので、物申させて頂きます。

    時は謀略と裏切りが渦巻く戦国時代。
    そのような世の中で、紹運公は忠義とは何かという事を、世に知らしめたかったのでしょう。
    そして、息子達には何としても生き抜いて、ご自身の志を受け継いで欲しかったのだと思います。
    その為には、紹運公は、ご自身が岩屋城で犠牲になるしか無いと考え、始めから討死する目的で立て篭ったのです。
    その証拠に、岩屋城に立て篭った763名のうち、立花城からの援軍以外の将兵は、身寄りがいない者ばかりで、紹運公自ら、共に討死する意志を一人一人確認しており、身寄りがいる者は宝満城や立花城に退去させています。

    また、岩屋城跡を一度ご覧になれば分かると思いますが、確かに城周辺は険しく、ゲリラ戦に非常に適した地形です。
    智将でもあった紹運公が、ゲリラ戦を展開すれば、大軍を翻弄して違った戦局になった可能性もあります。
    しかし、紹運公な姑息な手段で生き残るより、武士として潔い討死を選んだのです。
    更に、元々釣り野伏せを始め、ゲリラ戦術を得意とする島津家相手に、ゲリラ戦を展開する事は難しいと判断したのかもしれません。

    これらの事から、紹運公の岩屋城での玉砕は、紹運公の生き様と宗茂公をはじめ、後世の武士に忠義とは何かを知らしめる為に、不可避であったと考えます。

    紹運公こそ、武士の鏡、真の英雄と言うべき御仁でしょう。

  20. 人間七七四年 | URL | -

    岩屋城は、麓の大宰府政庁跡から登りだしたら30分ちょいくらいで本丸に着く
    一応山城だから斜面はきついけど、当時の人間には大した事無かったかも
    確か宗茂も黒田官兵衛も、岩屋城は要害がショボいから宝満か立花山城に移っては、て言ってるし
    あんま堅い城じゃなかったんでは
    行ってみると、本丸や胴塚のある二の丸の敷地はかなり狭い。城というよりは砦って感じ
    登ると、本丸からの景色は流石にいい。大宰府天満宮やら博物館やらが眼下に。そしてなにより、家臣の子孫の方が建てたという石碑がいい
    行ける人は行ってみるのもいいかも

  21. 人間七七四年 | URL | -

    岩屋城東側は宿敵秋月氏の領地…かつては岩屋城下一帯まで進出してたから
    島津に秋月が協力してる以上敵側に地形がバレバレ
    この状況でゲリラ戦は無謀と言える

  22. 人間七七四年 | URL | -

    島津側も紹運公を殺したくないのがすげーわかるわ

  23. 人間七七四年 | URL | -

    島津の狙いは紹運の首や兵力を削ぐ事じゃ無く、岩屋城占拠にあるこの場合にゲリラ戦仕掛けて枝葉削っても守兵の減った岩屋城に戦力向けるだけで効果薄いんじゃね?
    岩屋城が堅城ならゲリラ戦もまだ効果あろうけど

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