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我が家に伝わる大内さん家の家庭不和の事情

2010年01月13日 00:07

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:30:47 ID:stxta5Kz
我が家に伝わる大内さん家の家庭不和の事情。

永正四年、当時の管領細川政元が家督を巡る養子間の抗争の煽りで暗殺された。
いわゆる永正の錯乱である。
養子の一人で暗殺の首謀者である細川澄之は、程なく澄元との抗争に敗北して自害したが、
今度はその澄元と、澄之打倒までは澄元を支持していたもう一人の養子、高国が対立。
この高国が西国の雄大内義興と結んでその軍を山城に引き入れ、
以後約十年にわたって畿内に大内軍が駐留することになった。

さて、永正十五年。
長らく留守にしていた領国が尼子氏をはじめとする周辺敵対勢力の蚕食に遭い、
また強大な大内義興の存在を将軍や管領が疎ましく思い始め、
義興の立場は時を追うごとに極度に悪化してきていた。
義興はこれ以上京の都に留まることに意義を見出せず、ついに帰国の途に着くのである。



この時、山口目指して山陽道を進む大内勢の中には、
数万の武家のほか、長槍が林立し甲冑が日光を照らし返すその行列にそぐわぬ人の姿があった。
本来都に在って帝に侍るべき公家衆が加わっていたのである。


625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:31:06 ID:stxta5Kz
十年に渡る大内軍の畿内駐留の間に、義興と親しくなったその公家は、
暮らしの厳しい都を離れ、大内勢に従って一路山口目指して旅立ったのだ。

「姓を考えねばならぬな」

小松原という土地に差し掛かったところで、義興はその地下人の公家にそう告げた。
公家は藤原某を名乗っていたが、都を落ち、周防の地から
もう還らぬ覚悟であるなら姓も変えたほうがいい。
そんな話の成り行きだった。

「ちょうどこの土地は小松原……小は新たにつける苗字には余りよき漢字ではないな。
 そこもとは今日より松原某を名乗るがいい」

都落ちの公家に否を告げるべくもない。かくして大内家の家臣団の末席に、
新たに松原某という公家崩れの武士が加わったのだった。

さて、こんな光景はこの行列中ではもう何度も繰り返された光景だった。
じつは都落ちの公家はこの松原某ばかりではない。
少なからぬ公家が大内義興の都落ちに同行し、そのまま周防長門の地で在地化、武士化して、
大内義興、義隆の近臣を形成してしまったらしい。
後年、太寧寺で大内義隆に殉死した近臣の中に、譜代には見えぬ名前が
多くあるのはそういう理由もあるのだとか。

相良武任だけならばまだしも、蹴鞠や和歌しか知らぬような公家崩れの側近が多く
義隆の周囲を固めている。
陶隆房や内藤興盛らの心中いかばかりか……というのは想像に難くない。

歌や蹴鞠では国は保てない、ましてや一門譜代をおろそかにしては……
知らずと我が子我が家の災いを自ら持ち込んでしまった、そんな大内義興の悪いお話。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:39:47 ID:+XvoFDWo
戦国といい幕末といい、山口と公家は何かと縁があるな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/11(月) 23:54:56 ID:q31qJIj8
相良武任さんは肥後で下相良氏との争いに敗れた上相良氏の末裔らしいので、
大内における地盤が無く、軋轢を覚悟で働かざるを得なかったわけで少し同情はする。


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 00:30:59 ID:jOazsnk8

>>627
義隆がとっかえひっかえ男色しすぎなのがよくないんだよな



昌山は豊臣政権でも准后・前将軍として厚遇されてるし同席することも多かっただろうけど
幽斎は昔のことで昌山に詫び入れたのかな





630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 00:38:34 ID:kz15k83h
>>625
まさにそれご先祖様w
義興公の山口帰還に加わった公家の1人というか一族で、その後うちの長は太寧寺で自刃
生き残った一族はほぼ全滅しかけたけどツテを頼って安芸に移動して土着
(吉見領に向かおうとしたけど封鎖されており安芸路のほうが安全だったという話)

631 名前:625[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 00:54:24 ID:n2IpQAI7
>>630
いよう、ご先祖のご同僚w

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 01:48:43 ID:mWjPlpO3
公家が遊芸と机上の学問しか能がない、というのは誤解だと思うじぇ
新規の政治集団が大量に入ったことで、在地豪族との軋轢を生んだのは間違いないだろうけど

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 07:15:30 ID:hkOZ+VGZ
そういえば土着武断派のトップ陶隆房の息子と
新参文治派相良武任の娘を結婚させて縁続きにして
丸く収めようという計画があったのに、肝心の隆房が泣いて抗議した為に
縁談がこじれたばかりか、話を進めていた義隆の面目まで丸潰れになってしまった
っていう話を見た事がある

大内関係の小説だとテンプレのように使われるからどこかに元逸話があるのかもしれない
泣いて抗議ってどれだけ嫌なんだよって感じだがw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 13:26:48 ID:JnuR6l8J
>>633
陶隆房は、負け戦で退却中に「俺のせいじゃない!(殿のせいだ)」と怒ったり、
短慮で部下を斬って亡霊にたたられたりと、坊ちゃん気質の悪い面が出る逸話ばかり多い気がする。
泣いて抗議も、坊ちゃんならありうるなあと思えてしまった。
これも毛利の謀略……?

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 13:58:55 ID:G4UHZ0ly
>>637
陶晴賢が部下を生きたまま火あぶりにして祟られたというのは
江戸時代の僧、浅井了意の書いた怪談物語「伽婢子」の五十章、厚狭応報・厚狭が死霊の事
というのが出典でモトネタは中国古典だかにあるらしい
そもそも火あぶりにされた厚狭弾正という人物も大内家には存在しなかったので、
良かった!部下を火あぶりにした陶晴賢はどこにもいなかったんだ!

まあそれを抜きにしても強引で何かと災いを振り撒く武将ではある
謀反後にかつての政敵だった杉重矩を討ったのはいいけど、
厳島の戦いの後には、逆に杉の息子に自分の息子が殺されてるし
晴賢が首を突っ込んだ山田事件も悲惨だった

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/12(火) 14:04:46 ID:L04w149B
まぁ、簒奪者なんだし、結構強引なことしないと何にも出来ないだろう
満場一致で簒奪大歓迎というわけでも無いんだし

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    陶さんは短慮で強引な人だから要らぬ敵を作ってしまったり主君の信頼関係にひび入ったりするのかもね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    >相良武任
    自身は、決して無能では無いようです。
    行政能力に長けていたとの記述もある。
    但し、佞臣・奸臣の評もある。

    >陶の息子と相良の娘の婚姻
    隆房は実際は泣いて拒んだのではなく、かなり「怒り狂って拒んだ」との説もある。

    発端は。武任が「流石にこのままじゃ行けないかも」と思い。美人で有名な娘を隆房の息子へ嫁がせて、「和解しない?」と持ちかけた。

    しかし隆房が。「長房(息子)の父親に武任がなるとか、マジ有り得ねえから」と完全拒否。それを聞いた武任も「折角此方が和解と言ってるのに、そりゃ無いぜ」と機嫌を悪くして、余計に仲が悪くなったとの事。

    ま・例え婚姻がなったとしても。二人の仲を考えれば、遠からず内紛に発展してたでしょうね。

  3. 人間六七四年 | URL | -

    ところで何故「我が家に伝わる」・・・?
    案外そういう家系って多いのかしらん。
    (そういう家系:先祖が公家とか武士やってました!)
    友人も公家とか武士だし、華族いるし、俺も某願譜代の家老だし。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >公家
    と言うと。どうしても「ZIPの麻呂」を思い出してしまうw

  5. 人間七七四年 | URL | -

    明治五年の統計で士族は全人口の5%。
    これには平民とされた陪臣は含まれない。
    おそらく10%程度は「さむらい」で、郷士も含めたら直系の「武士」「公家」の家系だけでも相当な数になると思うよ

  6. 人間七七四年 | URL | -

    >>633>>637
    けっきょく融通利かなくて器もちっさい二代目ボンボン同士の主従が
    すれ違いをかさねた末の帰結としか思えないんだよなあ>大寧寺

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