254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 00:15:44 ID:A0SB74EK
関東八屋形の一つ、那須家は応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。
上那須四代・資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって
実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。
資清は遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永を福原城に追い詰めた。
ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永の家臣・田川時法が
「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。
包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久の首が入っていた。
こうして、上那須家は唐突に断絶した。
「追い詰められた資永の命により、田川が田中城に忍び込んで、資久様を誘拐した。この上は
下那須の資房様に従い、指示を仰ぐべし。」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。
資清が統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が
主君・資房に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は資清を攻めた。
資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。
24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、宗増と資安は驚いた。
「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」
「やぁご両所、お久しゅう。実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。
身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。」
不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた資清は、宗増の嫡子・増次を殺すと、
自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の
養子に押し込んだ。
さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。
この資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、父に勝るとも劣らぬ悪謀を巡らせ、
那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。
258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 02:43:27 ID:vgPRIJb4
遠く越前は永平寺に隠遁したの大田原資清が22年後に突如舞い戻って来たでござる。
結構壮大な話だよな。
資清の他家乗っ取りのやり方ってちょっと面白い。長男高増を大関氏、次男資孝を
福原氏に入れて独立させ、大田原氏は三男綱清に継がせる大陸風の末子相続か。
でも3家のイニチアシブは長男大関高増が執っていたみたいだね。
259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 06:19:41 ID:IT+qGobI
>>254
そもそもの資久暗殺も実は資清の差し金?
260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 09:43:50 ID:L5TsXL+b
>>259
統一那須家の家老に収まって資房にも重用されてるのを見ると
そう思えてしまうよなw
資房自身は上那須家の相続争いに関しては資久を支持したみたいだけど、
両方共倒れ後にちゃっかり自分が統一那須家を支配してるし、
資清と資房がグルになってる気がしてならないw
関東八屋形の一つ、那須家は応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。
上那須四代・資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって
実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。
資清は遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永を福原城に追い詰めた。
ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永の家臣・田川時法が
「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。
包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久の首が入っていた。
こうして、上那須家は唐突に断絶した。
「追い詰められた資永の命により、田川が田中城に忍び込んで、資久様を誘拐した。この上は
下那須の資房様に従い、指示を仰ぐべし。」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。
資清が統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が
主君・資房に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は資清を攻めた。
資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。
24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、宗増と資安は驚いた。
「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」
「やぁご両所、お久しゅう。実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。
身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。」
不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた資清は、宗増の嫡子・増次を殺すと、
自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の
養子に押し込んだ。
さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。
この資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、父に勝るとも劣らぬ悪謀を巡らせ、
那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。
258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 02:43:27 ID:vgPRIJb4
遠く越前は永平寺に隠遁したの大田原資清が22年後に突如舞い戻って来たでござる。
結構壮大な話だよな。
資清の他家乗っ取りのやり方ってちょっと面白い。長男高増を大関氏、次男資孝を
福原氏に入れて独立させ、大田原氏は三男綱清に継がせる大陸風の末子相続か。
でも3家のイニチアシブは長男大関高増が執っていたみたいだね。
259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 06:19:41 ID:IT+qGobI
>>254
そもそもの資久暗殺も実は資清の差し金?
260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/02(火) 09:43:50 ID:L5TsXL+b
>>259
統一那須家の家老に収まって資房にも重用されてるのを見ると
そう思えてしまうよなw
資房自身は上那須家の相続争いに関しては資久を支持したみたいだけど、
両方共倒れ後にちゃっかり自分が統一那須家を支配してるし、
資清と資房がグルになってる気がしてならないw
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コメント
人間七七四年 | URL | -
どーやって越前から兵士つれてこれんのかな?
( 2010年02月03日 00:40 )
人間七七四年 | URL | -
さすがにスケキヨを名乗るだけはある
( 2010年02月03日 01:10 )
人間七七四年 | URL | -
統一那須家も資房の孫が資清と対立したら何故か敵の謀略で暗殺されたんだよなあ
( 2010年02月03日 03:48 )
人間七七四年 | URL | -
那須七騎は諱で表記するともう誰が誰だか・・・w
天文年間くらいまでのここと宇都宮家の駆け引きとgdgdっぷりはたまらんね 両家とも策略家ばっかりだし
( 2010年02月03日 11:55 )
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