fc2ブログ

阿部忠秋は捨て子を

2010年02月12日 00:06

792 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/10(水) 22:52:54 ID:DnDf0wDL
寛永の遺老の一人、阿部忠秋は毎年数十人の捨て子を養育していた。
このことはたちまち江戸中に知れ渡り、阿部忠秋の屋敷前や通勤経路には、捨て子をする人が増えた。

捨て子を見つけるとすぐに抱き上げる忠秋に、家臣が
「殿、際限がございませぬ。」と制止すると、
「捨てたくて子を捨てる親はいないのだから、捨て子がいるということは、われらの政治がいたらなかったということ。
だからこそ、子を育てることで穴埋めをしたい。」と言い、
「しかし、金が掛かります。」と家臣が食い下がると、
「遊興を控えて浮かせた金で養育しておる。そなたらに迷惑をかけてはおらん。」と答えたという。

成長した子は、男の子は家臣とし、女の子は嫁ぎ先を見つけてやったという。




793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 23:01:30 ID:lDiZ8BLW
現代で言う赤ちゃんポストか……

794 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/02/10(水) 23:15:54 ID:pfCbXhQ1
>>792
>男の子は家臣とし

自分のシンパを安く増やしてない?

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/10(水) 23:16:40 ID:OcFb0rvu
>>792

生類憐みの令が徹底される頃まで、
一切良心の仮借なく、自分の子供を殺したり捨てたりする世の中だったんだよな。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/11(木) 00:23:20 ID:ff2dhh6t
えらい豪勢な殿様だな。
足軽、中間には困らんのか・・

スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | JalddpaA

    育ててくれた恩があるしいい家臣になるんじゃね?
    教育方針もおもいのままだろうし

  2.   | URL | -

    子供は産めばまた得られる、という考えだったろうしな
    現代の尺度で考える方が間違ってる

  3. 人間七七四年 | URL | -

    たしか生まれてから七日以内だったら「神に返す」と言って子殺しする習慣あったよね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    現代的な愛情の念がなかったわけじゃないと思うけどね。
    全国の津々浦々に、地蔵や水子供養があるのは大人達の感情の現れだろう。
    ただ、子供の致死率が高かったから、それに対応した行動をとらざるをえなかっただけで。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    水子供養は、ごく最近生まれたもので、戦前の社会にはそういう発想ないよ。
    ソースは『間引きと水子』。
    多分、地蔵作って弔うようになったのも、江戸中期以降だと思う。

    戦国時代の人々はみんな、現代の価値観から見れば超dqnなのは間違いない。
    現代の尺度で見るのが良いか悪いかは別にしてもね。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    貧乏の子沢山、当時の食糧生産量からしても生まれた子全員養えるだけの余裕は物理的にないからねぇ。
    かといって子がいないと農業従事労働力が足らない=生きていけない。
    避妊の知識があるわけじゃないから明るく家族計画できんし、
    かといって節制してたらいつ病や事故で死ぬかわからん(から多いにこしたことない)。

    子供だけじゃなく大人も生きるか死ぬかの時代、子供にはかわいそうだけど、
    このシビアさは動物の親子関係と一緒っちゃ一緒だわな

  7. 人間七七四年 | URL | -

    幕末に来た外国人がある村覗いたらどの家も1男1女で「ちょっとこれなんかおかしくね?」といったとか・・・

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/3642-eeadba11
この記事へのトラックバック