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久松家の憂うつ

2010年03月05日 00:06

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/03(水) 23:29:16 ID:dmkMwYdi
久松家の憂うつ

徳川家康の生母於大の方は、松平広忠との離別後、兄水野信元の意向にしたがい知多郡阿久比城主
久松俊勝と再婚した。俊勝もまた再婚であり、前妻との間に信俊(あるいは定員)という子供がいた。

於大の方は、俊勝との間に康元、康俊、定勝の三人を生んでいる。桶狭間の戦いで今川義元が討死、
混乱の中、家康が今川氏から独立を果たすと久松俊勝は家康の家臣となり三河統一戦でめざましい
働きをする。特に鵜殿氏の籠もる上ノ郷城(蒲郡市)攻めでの働きが際立っていたため、家康は
落城後、この城を俊勝に与えている。俊勝は本領である阿久比を前妻の子である信俊に渡すと、次男
康元に上ノ郷城を守らせ、自分は岡崎に詰めるようになった。家康と異父弟という関係の次男に新貫
を、家康と血のつながりが無い長男に久松家嫡流として本貫を渡すという考えであったようだ。
なお、久松家を継いだ信俊は織田氏にしたがった。


ここまではよかった。


天正三年、俊勝の義兄水野信元に武田通謀の嫌疑がかかった。家康の同盟者である織田信長は信元の
排除を決め、家康に信元を殺すよう求めてきた。家康は織田との同盟を重視しこれに従うことにした。
そして、信元を自分の領地である岡崎に呼び出して殺害しようとした。

誰を迎えにやるか?

信元義弟である俊勝に白羽の矢が立った。ただし、俊勝には信元殺害の計画を一切知らせていない。


何も知らされぬまま俊勝は信元を迎えにいき、岡崎大樹寺で信元が殺害されたことを聞き驚愕した。
そして怒った。

「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。世の人のかえり聞かん事も
恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」(藩翰譜)

家康の冷酷な仕打ちに激怒した俊勝はそのまま上ノ郷城に籠もったまま鬱々と過ごし天正十五年に
没した。


これだけではすまない。


俊勝の長男信俊は佐久間信盛の指揮下、石山本願寺と戦っていたが、天正五年、かつて久松家が
一向宗を保護していたことを理由に信盛の讒言をうけ、信長から謀反の嫌疑をかけられ憤慨して
陣中で自害してしまう。そればかりか、その直後、阿久比に佐久間勢が攻め込み、信俊の子供二人
も殺害されてしまう。

結局、その時まだ胎児であった子供がその母とともに助かり、子孫は後に伊予松山藩に仕えたという。

家康の異父弟たちもそれぞれ苦労したようだけど、更に過酷な運命にあった本家久松さんのお話し。

関連
もしこの時取り乱せば、


939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 00:56:44 ID:spqkNLyh
戦場で死を恐れず敵に突っ込むのは臆病者の仕業ってえらいひとが言ってた(死ぬ気にならないと戦えないって意味で

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 04:47:57 ID:oh2GGky3
>>938
水野潰しのとばっちり受けたんだな 可哀想に

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    なるほど、今治藩久松松平家の家老・一色家が天正の時期に一家離散した理由が解った。

    一色範直と三男・教重は伊予国守護河野家に仕え、
    次男・帯刀詮勝は俊勝の娘婿となり久松家家老を務め、
    長男・家次は母とともに近江国へ行き母方の姓・林氏を名乗る。

    これは信俊を分家する時に名門・一色家の末裔で働き盛りの範直に補佐させ、
    長男・家次は元服が済んでいたので父のサポート、
    次男・詮勝は少年のため小姓として出仕していたため俊勝の元へ、
    若年だった三男・教重は父と行動をともにする。

    で、信俊が失脚すると範直と教重は妻のツテで河野家を頼り(織田家の量産型林氏は河野一族)、
    何らかの理由で長距離の逃亡ができない妻は長男・家次に守られ一族を頼ったと。

    もっとも教重の子は河野氏の滅亡後、
    紆余曲折を経て伊予国に転封してきた久松松平家に復帰するのだから縁って不思議だね。

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