960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/04(木) 23:37:08 ID:FYN7EeOB
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。
本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。
この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。
幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。
この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 00:08:18 ID:F9oONOKe
斉藤と組んで幸隆の弟(常田隆家)を殺した人間が今さら恩人もクソもねーだろ
幸光・輝幸兄弟の粛清だって同輩の藤田信吉を追い出したり独断で由良氏と戦ったり
不穏な動きがあったからだしな
羽尾氏という豪族が上州吾妻郡にいた。
本姓は滋野、家紋は六文銭であの真田氏とは同族であり
四阿山を挟んでほぼ隣同士という間柄であった。
天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際
当時の当主羽尾幸全はその手助けをしたという。
この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
当時真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
羽尾幸全は上杉に臣従しており、同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として
岩櫃城に立て篭もる。
幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んんで一時兵を引くと同時に調略を開始
城主の甥弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ城を落した。
幸世はこの時討ち死にしたとも越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は恩人を攻め滅ぼしたのだ。
この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し
幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。
961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/05(金) 00:08:18 ID:F9oONOKe
斉藤と組んで幸隆の弟(常田隆家)を殺した人間が今さら恩人もクソもねーだろ
幸光・輝幸兄弟の粛清だって同輩の藤田信吉を追い出したり独断で由良氏と戦ったり
不穏な動きがあったからだしな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
うーん(X_X)
携帯厨ですが、新しくなってから字が小さくて読めませーーん。
携帯の方の設定で文字サイズ変えても小さいままだし(X_X)
スタイルシートっていうやつなのかなぁ?
PCで見てて、ブラウザのフォントサイズ変えてもサイズが変わるサイトと変わらないサイトあるよね(X_X)
( 2010年03月06日 03:40 )
まとめ管理人 | URL | wZ.hFnaU
>携帯厨ですが、新しくなってから字が小さくて読めませーーん。
ちょっと変更してみました。こちらでいかがでしょうか?
( 2010年03月06日 03:55 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
わざわざ私などの書き込みのためにありがとうございます(ノД`)
お陰さまで、私の環境でもまた携帯での閲覧を楽しめます。
ありがとうございましたm(_ _)m
( 2010年03月07日 00:39 )
まとめ管理人 | URL | -
Re: タイトルなし
いえいえ、しかし管理人の方で携帯からどう見えるか今ちょっと確認出来ないので、
もし見えにくいと言う方がいたらどんどん言ってやってくださいませm(_ _)m。
( 2010年03月07日 00:49 )
人間七七四年 | URL | -
幸光・輝幸兄弟は後に海野を名乗り、色々やらかして昌幸に成敗されるのだけど、
最期は「沼田一の豪傑」を一撃で屠った後に「逃げようと思えばもうちょっと逃げられるけどここらで諦めよう」といって自刃。
その場所は海野塚として市の史跡になってるけど駐車場がないので寄りようがない。
ちなみに沼田衆は弱くない訳で、海野一族の武勇ってちょっとレベル違うなと思う。
( 2013年08月15日 22:59 )
電子の海から名無し様 | URL | -
輝幸は塚原卜伝から印可を受けたなんて話もあったし、武勇がかなり優れていたのは確からしい。
この羽尾だけでなく、海野一族周りは系譜がぐちゃぐちゃで、史料によっていたりいなかったりする人物がいっぱいいる。
この羽尾幸全も系譜から消え去っていたり、彼の息子が幸世と幸光、輝幸だったりと、ここもはっきりしない。
さらに幸全の父親の景幸も海野棟綱の子とされていたり、棟綱の嫡男幸義の子とされていたり、棟綱の父、あるいは祖父の次男の幸安が影幸の養子になって跡をついでその子が幸全だとされていたり、もうどれが正しいのかわけわからんことに。
ややこしいことに海野棟綱の生年がわからんからどれも否定するのが難しい。
これは幸隆が海野氏の系譜を改竄した弊害だろうと思われる。
ちょっと幸隆、許されざるよ。
( 2014年12月27日 05:32 )
| URL | -
なお、幸光・輝幸兄弟が粛清された理由の一つ目。
吾妻郡の統治は兄弟に任されるはずだったが吾妻郡には真田ゆかりの人間が次々と領地として与えられるのを見て、「任せるっていったやろー?」と言ったら「間違いないけど鎌原、湯本、植栗、池田、浦野、西久保、横谷この七人は独立国人として認めてやってね?」と返ってきた。
そしたら湯本、鎌原(吾妻郡西部は大体彼らの三つ巴だったので仲が悪い)「七人もつけろやってあの兄弟が言ってる。これは謀反を企てたも同然!ほかの五人もそう言ってる」と注進した。
鎌原は幸隆の弟が入ってたので超近い一族だし、他に言ってる人もいるがその弟は羽根尾一族に殺された。
要するに政争に負けた、ということ。
もう一つが海野姓を名乗ったから。
血縁関係の矢沢頼綱さんも昌幸に相談されて、「娘婿で孫もいるし可哀そうだけどこいつらがいると海野惣領関係がめんどくさい(意訳)」と言っている。
我が強く、海野惣領家を名乗る真田に遠慮せず海野を名乗り、恩もあるが恨みもある一族に対してもっと近い一族を含む吾妻郡の中心部将たちがあいつヤっちゃおーぜ、と言ってきたので乗った、というそういうところだと思う。
( 2018年01月29日 23:47 )
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