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久野宗能の賭け

2010年03月23日 00:11

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 00:07:16 ID:dB+DUQm3
久野宗能の賭け


永禄十一年(1568)十二月、徳川家康は終に遠江に侵攻、今川氏真の籠る掛川城に向かった。
久野家の居城久野城は掛川城の西8キロほどの位置にあり、徳川軍の進行路にある。
今川家譜代の臣である久野家惣領、宗能は、徳川軍を迎え撃つ体制をとったが、そこに家康より
高力清長が使者として派遣された。あの「仏高力」として有名な男である。

「今川のお家はもはや長くない。我々徳川家にこそ頼られよ。」

久野宗能は大いに悩んだ。しかし、たしかに今川はもうおしまいであろう。そう思い、家中には
異論も多かったが、当時まだ25歳の、若き家康に久野家の未来を賭けた。

彼は家康に従い、遠江に侵入した武田家の武将秋山信友の部隊と戦い、その姿勢を鮮明にした。

ところがそうしたとたん、武田、今川より更なる寝返りを求める誘いが相次いだ。
今川氏真にいたっては、「家康を殺せば遠江一国を与える」とまで言ってきた。
これに久野家家中にはなびくものが現れ、一族の宗政は久野宗能に、

「掛川城の今川勢とともに、家康を挟み討ちにしましょう!」

と進言する。
久野宗能はこれを言下に却下したが、宗政は密かに仲間を集め、一族の日向守宗成、弾正忠宗らと、掛川城からの
援軍を頼んで宗能を討ち取り、その弟宗益を立てると言うクーデターの陰謀を企てた。
宗政らはこの陰謀を掛川城の側と連絡をとりながら進めたが、久野宗能はこれを察知し家康に通報した。

これを聞いた家康の行動は早かった。十二月二十一日夜、大久保忠世の部隊を久野城に派遣、宗政らクーデター一派を
成敗すると、さらに城外に大須賀康高、松平家次、家忠、水野忠重らを潜ませ、クーデター一派を援助するため
久野城に派遣された掛川城の兵を待ち伏せし、その多くを討ち取った。
久野家における宗能の反対派は、これで完全に排除された。


久野家の未来を、徳川家康という青年に賭けた久野宗能。
彼の家は家康とともに戦国を生き抜き、やがて伊勢田丸藩1万石として、明治まで続く。

今川家の衰亡と言う混乱の中での、ひとつの決断についてのお話である。




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 08:42:24 ID:V7sqgGgg
>>925
北信濃で似たような事があって、武田はこの際だから、全て殺して城を没収したことがあったような。

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/22(月) 09:07:58 ID:tTYjgaQD
降誘しといて事が済んだら皆殺しとかは信玄の常套手段とも言える
ぶっちゃけた話、信州はそうやって平定した
まぁ、いい話ではないけどね
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    tp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2983.htmlみたいな話が通じるのも納得の忠誠心だね。

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