579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 12:07:01 ID:sGuRgWYh
田峯城の惨劇
天正三年(1575)長篠の戦いに敗れた武田勝頼の一行に信濃までの道を案内するのは、奥三河田峯城城主、
菅沼定忠とその家老城所道寿であった。遠征をする場合、攻め込むときも撤退するときも地元の武将が道案内をする。
この時は定忠が、その役割を引き受けた。
やがて自城田峯城にたどりつくと、定忠は勝頼一行に休息をとってもらおうとした。
ところが、である。留守居の菅沼定直と今泉道善は、城主定忠らの入城を拒絶したのだ。
これには、このような経緯がある。
弘治元年(1555)、まだ今川義元の時代、定忠の父定継は今川から寝返り尾張の織田に通じた。
このため義元の討伐を受け敗北、定次は自刃して果てた。
田峯菅沼宗家はこれで滅亡かと思われたが、この時、三才であった定継の一子小法師丸(定忠)は、叔父である
菅沼定直に助けられ、やがて定直らの努力により、新たに三河の支配者となった徳川家康によって
田峯菅沼宗家の家督と所領安堵を認められた。
しかし定忠と家老城所道寿は、武田の調略に乗り家康を裏切り武田に通じた。家督のことで徳川に恩義を感じていた
菅沼定直らはかねてからこれに批判的であったが、長篠における武田の大敗という事態を受け、ついに
城主拒絶という挙に出たのだ。
菅沼定忠と城所道寿は激怒したが、敗走の最中にここでもたもたしているわけにも行かず、致し方なく田峰城を離れ
更に奥の武節城まで勝頼一行を案内し、そこで休憩をとってもらい信州へと入った。
さて、定忠は勝頼に許しをもらうと、早速田峯城の者たちへの復讐を計画した。
しかし田峯城は堅城であり、まともに攻めても攻め落とせないだろう。そこで定忠と城所道寿はまず、
自分達が絶望のあまり自刃して死んだ、と言う噂を流した。遺髪を田峯の菩提寺に届け、念の行ったことに
埋葬した証拠として土を盛りそこに卒塔婆まで立てた。
田峯城の定直らは終にこれを信じた。
天正四年7月。盆の時期であるこの期間、田峯の城兵は交代して帰宅する習わしがあった。
つまり、城の警備が手薄になるのだ。
定忠と城所道寿は密かに武節城に兵を集結させ、十四日の未明、まだ寝静まっている田峯城に斬り込んだ。
襲撃側も元は田峯の者たちであり、勝手知ったる城である。それらに寝込みを襲われた城方は何の応戦も出来なかった。
定忠達は菅沼定直をはじめ、女子供の区別なく城方のものを皆殺しとした。その数九十六人という。今泉道善は捕縛され、
今回の首謀者として鋸挽きにされた。
定忠と城所道寿は復讐を遂げると、再び信州の伊那に引き上げた。
更に時は過ぎ天正十年(1582)、織田信長による武田征伐により武田家は滅亡する。
五月、信州伊那に進出してきた徳川軍に、菅沼定忠と城所道寿は帰参を願い出た。いまさら、であろう。
当然認められることは無く、彼らは誅殺された。菅沼定直らによって救われた田峯菅沼宗家は、この時滅びた。
やがて家康は田峰城に、終始徳川方として行動していた道目記城主、菅沼定利を入れた。
この定利は、定忠に殺された菅沼定直の嫡子であった。
奥三河のとある城をめぐる、物語である。
580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 12:42:07 ID:2SWi0bEz
戦国時代において、家を保つのがどれほど難しいかよく分かる話だな。
581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 13:00:51 ID:wMJV9ME3
奥平家とは対称的
582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 14:03:49 ID:XeCGHHrn
大勢力の狭間にならざるをえない家だものな、菅沼や奥平は
584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 14:11:44 ID:hhhDLIdB
>>579
菅沼定盈は、終始徳川の味方だから、江戸時代に子孫は、分家だけどもっとも栄えた。
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 16:47:23 ID:6ddly/MM
>>579
死んだフリで卒塔婆まで立てる本気度が怖い
そこまで用心深くても生き抜けないご時世がもっと怖い
田峯城の惨劇
天正三年(1575)長篠の戦いに敗れた武田勝頼の一行に信濃までの道を案内するのは、奥三河田峯城城主、
菅沼定忠とその家老城所道寿であった。遠征をする場合、攻め込むときも撤退するときも地元の武将が道案内をする。
この時は定忠が、その役割を引き受けた。
やがて自城田峯城にたどりつくと、定忠は勝頼一行に休息をとってもらおうとした。
ところが、である。留守居の菅沼定直と今泉道善は、城主定忠らの入城を拒絶したのだ。
これには、このような経緯がある。
弘治元年(1555)、まだ今川義元の時代、定忠の父定継は今川から寝返り尾張の織田に通じた。
このため義元の討伐を受け敗北、定次は自刃して果てた。
田峯菅沼宗家はこれで滅亡かと思われたが、この時、三才であった定継の一子小法師丸(定忠)は、叔父である
菅沼定直に助けられ、やがて定直らの努力により、新たに三河の支配者となった徳川家康によって
田峯菅沼宗家の家督と所領安堵を認められた。
しかし定忠と家老城所道寿は、武田の調略に乗り家康を裏切り武田に通じた。家督のことで徳川に恩義を感じていた
菅沼定直らはかねてからこれに批判的であったが、長篠における武田の大敗という事態を受け、ついに
城主拒絶という挙に出たのだ。
菅沼定忠と城所道寿は激怒したが、敗走の最中にここでもたもたしているわけにも行かず、致し方なく田峰城を離れ
更に奥の武節城まで勝頼一行を案内し、そこで休憩をとってもらい信州へと入った。
さて、定忠は勝頼に許しをもらうと、早速田峯城の者たちへの復讐を計画した。
しかし田峯城は堅城であり、まともに攻めても攻め落とせないだろう。そこで定忠と城所道寿はまず、
自分達が絶望のあまり自刃して死んだ、と言う噂を流した。遺髪を田峯の菩提寺に届け、念の行ったことに
埋葬した証拠として土を盛りそこに卒塔婆まで立てた。
田峯城の定直らは終にこれを信じた。
天正四年7月。盆の時期であるこの期間、田峯の城兵は交代して帰宅する習わしがあった。
つまり、城の警備が手薄になるのだ。
定忠と城所道寿は密かに武節城に兵を集結させ、十四日の未明、まだ寝静まっている田峯城に斬り込んだ。
襲撃側も元は田峯の者たちであり、勝手知ったる城である。それらに寝込みを襲われた城方は何の応戦も出来なかった。
定忠達は菅沼定直をはじめ、女子供の区別なく城方のものを皆殺しとした。その数九十六人という。今泉道善は捕縛され、
今回の首謀者として鋸挽きにされた。
定忠と城所道寿は復讐を遂げると、再び信州の伊那に引き上げた。
更に時は過ぎ天正十年(1582)、織田信長による武田征伐により武田家は滅亡する。
五月、信州伊那に進出してきた徳川軍に、菅沼定忠と城所道寿は帰参を願い出た。いまさら、であろう。
当然認められることは無く、彼らは誅殺された。菅沼定直らによって救われた田峯菅沼宗家は、この時滅びた。
やがて家康は田峰城に、終始徳川方として行動していた道目記城主、菅沼定利を入れた。
この定利は、定忠に殺された菅沼定直の嫡子であった。
奥三河のとある城をめぐる、物語である。
580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 12:42:07 ID:2SWi0bEz
戦国時代において、家を保つのがどれほど難しいかよく分かる話だな。
581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 13:00:51 ID:wMJV9ME3
奥平家とは対称的
582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 14:03:49 ID:XeCGHHrn
大勢力の狭間にならざるをえない家だものな、菅沼や奥平は
584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 14:11:44 ID:hhhDLIdB
>>579
菅沼定盈は、終始徳川の味方だから、江戸時代に子孫は、分家だけどもっとも栄えた。
585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 16:47:23 ID:6ddly/MM
>>579
死んだフリで卒塔婆まで立てる本気度が怖い
そこまで用心深くても生き抜けないご時世がもっと怖い
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コメント
人間七七四年 | URL | -
題名も同じじゃんw
( 2010年03月25日 00:20 )
人間七七四年 | URL | -
皆殺しって言っても、相手は結構近い親族だろ・・・恐ろしい
( 2010年03月25日 07:49 )
人間七七四年 | URL | RZ4X6psw
親族とはいえ、戦国の世だからな。
父の仇で命の恩人で後見役として家督相続にも尽力してくれた叔父。
興味深い叔父甥の関係だ。
定利の方は、従兄弟が武田に付くと、人質に出されると聞いて菅沼定盈を頼って脱走したからこそ生き延びられたんだよな。
( 2010年03月25日 11:54 [Edit] )
名無し隊員さん | URL | -
結構近い親族同士が殺し合うから戦国時代なんだよ。
当の武田や松平だって相当なものだったでしょ?
( 2010年03月25日 14:55 )
人間七七四年 | URL | -
96人だけに苦労てっかww
何を言ってるんだが・・・
( 2010年03月25日 15:21 )
城所○○ | URL | oWJMxaHQ
城所道寿の子孫について
何方か、その後をご存知の方はいらっしゃいませんか?
最近、親戚の叔父から、私達の祖先は田峯城の家老と聞き...検索した所、本当に存在しているのだと知り、驚きました。
( 2011年05月12日 20:49 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
>>6
この程度の情報調べてるかもしれないし、あなたの先祖が該当するかわからないが…
何かしらの理由で敗れた武将の遺族はその後残党狩りから逃れるために名前を変えたり遠方の親戚を頼って逃げたりして、その後また元の名字を名乗ったりするので、田峯城近辺や甲州信州三河の地や城所の名字だけじゃなくてもっと色んなものも探した方がいいと思う
思いがけない経緯があるかもしれない
( 2011年05月12日 21:51 )
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