788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 13:47:33 ID:FJTmIQa9
武州忍城、成田長泰には4人の弟が居たとされる。
それぞれが各地の城代として派遣されていたり、長泰&氏長の名代として成田軍を率いて活躍したりと、中々の
器量人揃いであった。
中でも一門の長老として重きを成していたのは成田肥前守泰季と成田近江守泰徳の二人。
肥前守泰季はとある戦の際、近習が旗を奪われたのを知り、夕闇にまぎれて敵陣に単騎潜入。
自分の旗を持っていた敵兵を探し出し、切り捨てた挙句に旗を取り戻し、帰陣するというムチャをやらかしたホドの
武勇の主……兄貴には軽率だと叱られたケド。
近江守泰徳は兄弟の末弟で、御館の乱の際、成田軍を率いて厩橋城まで進軍したと言う記録が残っている。
越後に援軍を出した北条氏邦の第2陣としての行動だったのか、氏邦の留守を預かる守備隊だったのかは不明であるが、
一軍の将として信頼は受けていたのである。
そして時代は流れ長泰の死後。ラスボス様の関東仕置きが始まる。
当主氏長は小田原城に篭城する事になり、残された忍城の城代として泰季が、その副将として泰徳が指名された。
城内は肥前守泰季が抗戦派。近江守泰徳は和睦派であった。
しかしいざ、石田三成の忍城攻めが始まると、緒戦は兵力差にも係わらずほぼ互角。
あっという間に膠着状態になってしまう。
そして、膠着状態の打破を目指して行われたのが、あの有名な「水攻め」だった。
関東ローム層の土質は脆く、突貫工事の堤防には不向きだった。
城の中から忍者が放たれ堤防を破壊した。
付近の農民がわざと手抜き工事をした。
等々、様々なコトが言われているが、とりあえず水攻めは失敗。それどころか決壊した堤防から溢れた水は、
石田軍の陣に押し寄せ、多大な被害をもたらしたと言う。
しかし、たった一つ。この水攻めで挙げた成果がある。しかもかなり大きな戦果。
長期間の篭城。しかも水攻めで床の上まで水が溢れる悪環境に晒された為、守備側の総大将、肥前守泰季が病にかかり、
急死してしまったのだ。享年75歳。
2万を超える大軍に包囲され、援軍は続々と到着予定。城中は農民町民女子供を含めて5千。
その上武勇で鳴らす指揮官まで失った。
フツーならココでギブアップする。実際、現実が見えてたらやってらんないよね。
が、泰季、死の間際に遺言を残す。
「ワシの後を継いで戦の指揮を執るのはワシの息子、長親とする」
「泰徳は知恵はあるが勇に乏しい。大将とすべきは長親である」
激怒したのは近江守泰徳。
だって、現実を見ろよ!ムリじゃん!成田の家を残すなら降伏だって、絶対!
脳筋の兄からは腰抜け扱いされた挙句、副将である自分は無視で、いつの間にやら甥っ子が大将とされていたのである。
しかもその長親、今までは父の影に隠れて無能扱いされていたと言うのに、あっと言う間に城内の意見を抗戦で
纏め上げてしまった。
誰よりも成田家の為を思っているハズの自分が無視され、蔑まれ……思い余った泰徳は浅野長政に寝返りを申し入れる。
何なら氏長や長親の系統が断絶しても、自分の系統さえ残れば成田家は安泰、という思いがあったのかもしれない。
が、その企てさえも上手く行かない。
後は浅野からの合図を待てば良い、という所まで話は進んでいたのに……何があったのかは記録にはない。ただ、
手違いで合図が上手く行かなかった、とだけ書かれている。
結局、徹頭徹尾戦に反対し続け、徹頭徹尾思うように行かなかった成田家の宿老。
小田原城で「だって家の存続の方が大事だし」とか言ってラスボス様に寝返ったもう一人の甥、氏長の話を聞いた時、
どんな思いを抱いたのだろう?
「だったら何で最初っから戦なんか始めるんだよっ!!」
「小田原に籠もるのを拒否れば済んだコトじゃねぇか!!」
関東仕置き後の近江守泰徳の消息を伝えるモノはない。
795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 22:09:00 ID:+pNLQil1
>>788
ああ、例の http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3644.html の話の浅野長政の言葉は
負け惜しみの口から出任せって訳じゃなかったのか。
で、このとばっちりは長親に行くと……
796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 22:13:37 ID:g6bgyz5u
現実が見えてる分強硬派と上手くいかずに割り食うってよくある話だけど
そういう人は立場難しいよねぇ。
武州忍城、成田長泰には4人の弟が居たとされる。
それぞれが各地の城代として派遣されていたり、長泰&氏長の名代として成田軍を率いて活躍したりと、中々の
器量人揃いであった。
中でも一門の長老として重きを成していたのは成田肥前守泰季と成田近江守泰徳の二人。
肥前守泰季はとある戦の際、近習が旗を奪われたのを知り、夕闇にまぎれて敵陣に単騎潜入。
自分の旗を持っていた敵兵を探し出し、切り捨てた挙句に旗を取り戻し、帰陣するというムチャをやらかしたホドの
武勇の主……兄貴には軽率だと叱られたケド。
近江守泰徳は兄弟の末弟で、御館の乱の際、成田軍を率いて厩橋城まで進軍したと言う記録が残っている。
越後に援軍を出した北条氏邦の第2陣としての行動だったのか、氏邦の留守を預かる守備隊だったのかは不明であるが、
一軍の将として信頼は受けていたのである。
そして時代は流れ長泰の死後。ラスボス様の関東仕置きが始まる。
当主氏長は小田原城に篭城する事になり、残された忍城の城代として泰季が、その副将として泰徳が指名された。
城内は肥前守泰季が抗戦派。近江守泰徳は和睦派であった。
しかしいざ、石田三成の忍城攻めが始まると、緒戦は兵力差にも係わらずほぼ互角。
あっという間に膠着状態になってしまう。
そして、膠着状態の打破を目指して行われたのが、あの有名な「水攻め」だった。
関東ローム層の土質は脆く、突貫工事の堤防には不向きだった。
城の中から忍者が放たれ堤防を破壊した。
付近の農民がわざと手抜き工事をした。
等々、様々なコトが言われているが、とりあえず水攻めは失敗。それどころか決壊した堤防から溢れた水は、
石田軍の陣に押し寄せ、多大な被害をもたらしたと言う。
しかし、たった一つ。この水攻めで挙げた成果がある。しかもかなり大きな戦果。
長期間の篭城。しかも水攻めで床の上まで水が溢れる悪環境に晒された為、守備側の総大将、肥前守泰季が病にかかり、
急死してしまったのだ。享年75歳。
2万を超える大軍に包囲され、援軍は続々と到着予定。城中は農民町民女子供を含めて5千。
その上武勇で鳴らす指揮官まで失った。
フツーならココでギブアップする。実際、現実が見えてたらやってらんないよね。
が、泰季、死の間際に遺言を残す。
「ワシの後を継いで戦の指揮を執るのはワシの息子、長親とする」
「泰徳は知恵はあるが勇に乏しい。大将とすべきは長親である」
激怒したのは近江守泰徳。
だって、現実を見ろよ!ムリじゃん!成田の家を残すなら降伏だって、絶対!
脳筋の兄からは腰抜け扱いされた挙句、副将である自分は無視で、いつの間にやら甥っ子が大将とされていたのである。
しかもその長親、今までは父の影に隠れて無能扱いされていたと言うのに、あっと言う間に城内の意見を抗戦で
纏め上げてしまった。
誰よりも成田家の為を思っているハズの自分が無視され、蔑まれ……思い余った泰徳は浅野長政に寝返りを申し入れる。
何なら氏長や長親の系統が断絶しても、自分の系統さえ残れば成田家は安泰、という思いがあったのかもしれない。
が、その企てさえも上手く行かない。
後は浅野からの合図を待てば良い、という所まで話は進んでいたのに……何があったのかは記録にはない。ただ、
手違いで合図が上手く行かなかった、とだけ書かれている。
結局、徹頭徹尾戦に反対し続け、徹頭徹尾思うように行かなかった成田家の宿老。
小田原城で「だって家の存続の方が大事だし」とか言ってラスボス様に寝返ったもう一人の甥、氏長の話を聞いた時、
どんな思いを抱いたのだろう?
「だったら何で最初っから戦なんか始めるんだよっ!!」
「小田原に籠もるのを拒否れば済んだコトじゃねぇか!!」
関東仕置き後の近江守泰徳の消息を伝えるモノはない。
795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 22:09:00 ID:+pNLQil1
>>788
ああ、例の http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3644.html の話の浅野長政の言葉は
負け惜しみの口から出任せって訳じゃなかったのか。
で、このとばっちりは長親に行くと……
796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/30(火) 22:13:37 ID:g6bgyz5u
現実が見えてる分強硬派と上手くいかずに割り食うってよくある話だけど
そういう人は立場難しいよねぇ。
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