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伊豆韮山城攻めと福島家中の四人

2010年04月25日 00:00

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 10:00:17 ID:MGkRx5cQ
天正18年(1590)3月、秀吉の関東出兵に伴い、上方諸将は織田信雄を総大将として、伊豆韮山城を攻めた。

城主・北条美濃守氏規はみずから射芸を好み、家臣に弓鉄砲の上手も多く、容易に上方勢を寄せ付けない。
福島正則の重臣、尾関石見は先頭に立って果敢に攻め込んだが、左目に銃弾を受けた。
しかし尾関は血のあふれる目に指を突っ込み鉛玉を抜き出すと、なおも戦い続けた。
(関八州古戦録では蒲生郷可の話としているが、他に郷可が隻眼という記述はなく、尾関と混同したと思われる)

他家の劣勢を見た正則は、挽回せんと鐘太鼓を打ち鳴らし、家臣に突撃を命じた。これに応じて
福島丹波、長尾隼人、大崎玄蕃、可児才蔵ら百人が抜け出て、突出してきた城方を横合いから叩いた。
しかし、しばらくこれを傍観していた大将・信雄が、事態に気づいて総攻撃のホラ貝を吹かせた時には既に遅く、
体勢を立て直した氏規は、ホラ貝の音を聞くが早いか、城への撤収を始めた。

城方の撤収が完了し閉じられようとする城門に可児才蔵が一人飛び出し、獲った首二つを振り捨て、自分の槍を
門扉にネジ込み、隙間を作った。
この機を逃さず才蔵は扉を押し、福島丹波らもそれに続いたが、城方の反撃により二十人ばかりが討ち取られた。
負けじと大崎玄蕃らが、さらに扉に取り付き押し返したが、城方も必死に扉の隙間から槍や長刀を突き出し、
丹波の郎党二人が命を落とし、才蔵と玄蕃も負傷した。

そうこうしているうちに隙間を作っていた才蔵の槍が折れ、城門は完全に閉じてしまった。この間に長尾隼人は
城門の横から塀を乗り越えようとしたが、二度城方から突き落とされ、三度目には槍を口に突っ込まれた。

城門が閉じるのを見た正則は、ついに攻略をあきらめ、退却のホラ貝を鳴らし、なおも城門で粘る四人を退かせた。
この時、才蔵は折れた槍に先ほど捨てた首を拾ってくくりつけ、落ち着き払って退いた。城方もこの態度に感心し、
「敵ながら、あっぱれ。名を名乗って戻られよ。」と声をかけるのに四人は応じ、堂々と
「我ら、福島左衛門大夫家中の…」と名乗って陣へ帰った。城中から、これを狙い撃たんとする者もいたが、
城主の氏規が、「あのような勇者を卑怯なやり方で討てば、かえって軍神の怒りに触れよう。おとなしく去らせよ。」
と言うので、静かに彼らを見送った。

その夜、正則は四人を呼び出し、「今日の働き、全軍を驚かせるものだったぞ!今後とも、当家に一騎当千の
武者として働いてくれ。特に才蔵の皆に先立っての働きは見事だったが、味方が続かぬのに無理をしてはいかん。
以後、慎め。」と、褒め称え、かつ命を粗末にせぬよう言い渡した。


参考までにhttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
この時は軽傷で済んだ福島丹波も、関ヶ原の戦いで宇喜多隊に足を斬られ、跛足になったもよう。




523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 12:33:35 ID:wvpO7azK
市松も人を使う能力は一流だね

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 12:38:21 ID:xC0x86ag
市松さんは酒さえ飲まなければできる子
っていうか、基本的に人望あるんだよな

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 12:43:26 ID:jzcwsyin
小田原攻めと関ヶ原、福島家の重臣たちが傷ついた戦場に権現様もいた
もちろん傷ついた理由も知ってるワケで

小姓に激怒したのも当然だなあ

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 13:20:36 ID:7AIok60B
市松の活躍に隠れてるが

>しかし、しばらくこれを傍観していた大将・信雄が、事態に気づいて総攻撃のホラ貝を吹かせた時には既に遅く、

こっちもクオリティ安定してるよなw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 16:38:39 ID:IWOAUQxh
>>527
才蔵は小牧長久手といい、今回といいあれな総大将に縁があるなあ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 18:21:52 ID:vKfESL1j
小関正勝は眼窩に鉄砲玉喰らってよく無事だったな

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/24(土) 22:24:14 ID:d1Uqn8+Z
>>529
当時は手作りの黒色火薬を手作業で鉄砲に詰めて撃ってるわけだから
結構威力にもバラつきがあったんじゃないかな。



関連
福島正則とその家臣たち・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-239.html
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | mQop/nM.

    江川邸(韮山城の江川曲輪)で韮山城攻城戦時の弾痕、矢痕が沢山残る門を見たのを思い出した

  2. 人間七七四年 | URL | -

    何時も思うのだが、どうして戦下手を大将へ据えようとするのかな?
    信雄何て駄目の典型の一人だろうにw

  3. 人間七七四年 | URL | -

    >>2
    単純に言えば家格と動員兵力と地理の問題。
    東海道勢でラスボス除いて、大軍を指揮できる家格と兵力を持っていた連中は、家康・秀次・信雄しかいなかったから。
    無論、動員兵力だけで言えば、秀家なんかもいるけど、基本的に敵に近い領地を持っている奴が先陣を務めるのが慣わしなので、必然的にこの3人に絞られる訳だ。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    3氏へ
    なるほど~勉強になったよ。有難う!ではやっぱり信雄が大将になったのって、人が居ないからたまたまだったんだねw

  5. 人間七七四年 | URL | -

    なぜ名人久太郎を大身にしたかったか、の答えもここにあるかもしれないw

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