198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 07:29:30 ID:xMVYQ+Sg
2つの安東氏~檜山と湊~ その2
長らく南朝の勢力であった奥羽においては南北朝統一後もその勢力は残り続けた。
北畠顕家、顕信兄弟に従い続けた南部氏は北奥羽においては安東氏と並ぶ大勢力である。
津軽に本拠を構える安東盛季は決して無能な人物ではない。十三湊の最盛期は師季、貞季、盛季の三代であると言われる。
鹿季の独立にも背景がある。応永年間においては蝦夷ヶ島で大乱があり、北方の治安と交易を保護する安東氏としては
これの鎮圧に奔走させられた。
蝦夷に於ける大乱は大陸の明朝の北元討伐による北方民族の玉突き現象に原因があるとも考えられている。
時は盛季の子の康季に移り、応永二十四五年(1418)、疲弊した下国(津軽)安東氏を攻める好機とみた南部守行は
嫡子を京に送る。
(この南部守行も顕家、顕信を支えた八戸南部氏ではなく、上杉禅秀の乱で将軍と結びつき台頭した三戸南部氏である)
馬百匹、金千両を献上した南部氏は鹿季と同じく京都御扶持衆の地位を得、また嫡子は将軍・義持から「義」の一字を
与えられ義政と名乗った。
そして応永二十七年、南部守行・義政親子は下国安東氏に攻勢をかけ、藤崎城、大光寺城を陥落、津軽の支配を
強めていくのである。
一方で康季も次の将軍に命じられた義量に馬三十匹、雉羽根五千枚、中国古銭二万匹、ラッコ皮三十枚、
昆布五百把を送る。
この南部氏と下国安東氏の争いは将軍・義教の代に仲裁として康季の妹と義政の婚姻で落ち着いた
……かに思われたが、その義教、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺される。有名な嘉吉の変である。
目の上のたんこぶが混乱しているのを幸いとばかりに南部義政は再び津軽併呑の策を勧める。
妹婿として康季の福島城を訪れた義政は外に潜んでいた南部の手勢を引き入れ福島城を攻略
そのまま攻めに攻めたて、康季は先祖伝来の津軽の地を捨て海を渡り、蝦夷ヶ島まで退去したのであった。
しかし康季は以前として北海に強い影響力を保持しており、「安東」の影響力を無視できない南部氏は
捕虜にした安東氏傍流である安東重季の息子に師季の名乗りを与え、田名部の地を知行し
安東家惣領の名である「安東太」を名乗らせ、傀儡にする策にでた。(師季の母は南部義政の娘である)
一方で正統である安東康季は蝦夷の和人やアイヌらを再編し、軍船をもって外ヶ浜に上陸、
その報に津軽に残っていた安東氏同族、安東氏恩顧の土豪らが集まり、南部との対立の姿勢をみせた。
だが文安二年(1445)、津軽奪還で意気があがる安東氏の陣中で康季は病没したのである。
その後、残された康季の息子・義季は幾度となく抵抗を繰り返しながらも津軽を奪還することは叶わず
享徳二年(1453)、白神山地追良瀬川を下った深浦館で自刃した。
ここに安東氏嫡流は途絶えたのである。
南部氏の悪い話
関連
2つの安東氏~檜山と湊~ その1:ほんのちょっとだけ義満の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その3:安東政季の(諦めの)悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その4:安東愛季の悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その5:檜山安東氏と湊安東氏の(仲が)悪い話
2つの安東氏~檜山と湊~ その2
長らく南朝の勢力であった奥羽においては南北朝統一後もその勢力は残り続けた。
北畠顕家、顕信兄弟に従い続けた南部氏は北奥羽においては安東氏と並ぶ大勢力である。
津軽に本拠を構える安東盛季は決して無能な人物ではない。十三湊の最盛期は師季、貞季、盛季の三代であると言われる。
鹿季の独立にも背景がある。応永年間においては蝦夷ヶ島で大乱があり、北方の治安と交易を保護する安東氏としては
これの鎮圧に奔走させられた。
蝦夷に於ける大乱は大陸の明朝の北元討伐による北方民族の玉突き現象に原因があるとも考えられている。
時は盛季の子の康季に移り、応永二十四五年(1418)、疲弊した下国(津軽)安東氏を攻める好機とみた南部守行は
嫡子を京に送る。
(この南部守行も顕家、顕信を支えた八戸南部氏ではなく、上杉禅秀の乱で将軍と結びつき台頭した三戸南部氏である)
馬百匹、金千両を献上した南部氏は鹿季と同じく京都御扶持衆の地位を得、また嫡子は将軍・義持から「義」の一字を
与えられ義政と名乗った。
そして応永二十七年、南部守行・義政親子は下国安東氏に攻勢をかけ、藤崎城、大光寺城を陥落、津軽の支配を
強めていくのである。
一方で康季も次の将軍に命じられた義量に馬三十匹、雉羽根五千枚、中国古銭二万匹、ラッコ皮三十枚、
昆布五百把を送る。
この南部氏と下国安東氏の争いは将軍・義教の代に仲裁として康季の妹と義政の婚姻で落ち着いた
……かに思われたが、その義教、嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺される。有名な嘉吉の変である。
目の上のたんこぶが混乱しているのを幸いとばかりに南部義政は再び津軽併呑の策を勧める。
妹婿として康季の福島城を訪れた義政は外に潜んでいた南部の手勢を引き入れ福島城を攻略
そのまま攻めに攻めたて、康季は先祖伝来の津軽の地を捨て海を渡り、蝦夷ヶ島まで退去したのであった。
しかし康季は以前として北海に強い影響力を保持しており、「安東」の影響力を無視できない南部氏は
捕虜にした安東氏傍流である安東重季の息子に師季の名乗りを与え、田名部の地を知行し
安東家惣領の名である「安東太」を名乗らせ、傀儡にする策にでた。(師季の母は南部義政の娘である)
一方で正統である安東康季は蝦夷の和人やアイヌらを再編し、軍船をもって外ヶ浜に上陸、
その報に津軽に残っていた安東氏同族、安東氏恩顧の土豪らが集まり、南部との対立の姿勢をみせた。
だが文安二年(1445)、津軽奪還で意気があがる安東氏の陣中で康季は病没したのである。
その後、残された康季の息子・義季は幾度となく抵抗を繰り返しながらも津軽を奪還することは叶わず
享徳二年(1453)、白神山地追良瀬川を下った深浦館で自刃した。
ここに安東氏嫡流は途絶えたのである。
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