690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 02:17:41 ID:LqPdsv7K
東北や関東の戦国時代までの武士団の動きを考えるには、
この地方独特の社会構造だった『洞』の概念を理解しないと難しいだろ
えらそうに言ってて俺も半端にしか理解してないから解説できない訳だが
一番典型的な『洞』は千葉氏支配下の下総だよな
天正十八年までの小田原征伐まで、
古河公方支配の北西部除いてまったく千葉氏諸侯の勢力地図が動いてない
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:12:13 ID:fv4q6Qq3
>>690
洞中がどうこう言い出したのは、市村高男氏だが
その研究自体ほとんど進んでないようなもんだからな。
日本で、誰も理解できてる人いないかもね。
「奥羽常陸下野下総の在地勢力は、領土獲得を目的とした戦争はしなかった」というのが、唯一言えることか。
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:33:36 ID:b/Ep7tYx
つまりそれらの地域では「合戦」が軍事行動ではなく、警察行動だった、と考えるべきかな?
694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:37:57 ID:W5ZYd0he
八百長だな
上の人間(公方とか守護)に「まじめにやっていますよ」とアピール
実際は「戦争なんてやってらんね~」
695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:50:38 ID:wYWjygPp
公方やらから役職とかを得て、他人の土地訴訟の仲裁する権利を得た方が、美味しいことだったとかかな?
政宗が凄い勢いで拡張していった方が、あの地域では異常な事態とも言えるのかな
696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 12:53:13 ID:fv4q6Qq3
この地域では、同一氏族の中での内乱は、年中行事のようにやってた。
また、氏族内乱の一方に加担して、他領に攻め込むことも一般的だった。
しかし、別の氏族の本領を侵略することは、ほとんど行われていない。
せいぜい、和睦の際に養子を送り込むくらい。
だったら、藤木久志氏が言うように、略奪が主目的で攻め込んでいたのかと考えたくなるが、
前述の市村氏はこの藤木説に批判的なんだよね・・・
この地域では古河公方が強い影響力を持ってたので
戦いが決着する前に、すぐ調停してしまうというのが大きいかもね。
地域の暗黙の了解を破って、憚ることなく侵略行為を始めた政宗が、いかに異常で危険な
存在だったかということだよね(褒め言葉)。
697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 13:32:54 ID:LqPdsv7K
あと暴力団の抗争にも似てるよね
相手の頭のタマ取るまではあんまりやらなくて、
ひとしきり抗争して優劣がはっきりしたら詫び入れて頭が引退して、
勝った側の組長と負けた側の新しい組長が親分子分の杯交わせばオシマイ
負けた組のシマは基本的にそのまんま
各暴力団は二次団体三次団体と連なって緩やかなつながりを持っている
時には敵対団体だけじゃなくて、傘下の組織同士でも抗争が起きたりもする
もちろん二次団体が三次団体四次団体引き連れて独立抗争はじめたりもする
たとえば伊達晴宗の時代の最上さん家の楯岡さんでいえば、
広域指定暴力団伊達組最上会天童一家楯岡組みたいな
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 14:20:27 ID:PC3WUeH6
いや戦乱があっても、そこそこのところで和睦が入るのが
奥州の流儀って言う中間人制度だよ。
これは政宗も利用してるから、政宗も奥州のルールの枠内からは出てない。
それを表すのがたびたび行われる石川や相馬や岩城や田村清顕や伊達実元が
人取橋の戦いや郡山の戦い(窪田の戦い)での和睦斡旋をする行為。
今の目からみるとなんでそんな中途半端なって和睦だけど、
当時の奥州人のは当たり前の行動。
これが佐竹義重が伊達を追い詰めないで、
そこそこ痛めつめたら和睦に応じる姿勢。
この奥州の流儀がじょじょに破綻していくのが
秀吉政権の影響力の奥州への進出の深化と比例していく。
この中間人制度が奥州に一定の秩序と安全を保障していた。
699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 14:23:42 ID:JJA+lQ+D
そもそも、何が目的で戦闘してたんだろうかw
和睦したいからかww
700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 14:40:39 ID:fv4q6Qq3
>>699
それが本当に謎なんだよな。
こういう戦争のやり方してたから、小田さんみたいな人でもしぶとく生きながらえた訳なんだけど。
701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 15:02:14 ID:PC3WUeH6
でも不思議なのは
中間人制度って
初期の惣無事令と共存してるんだよねコレ。
惣無事で中央から直接に裁きを受ける前に
俺達でなんとか処理しようぜみたいなw
惣無事令を大儀名分にしつつも直接指示は受けないようにしてた。
たぶん権威の乱発による分郡守護や探題制度の崩壊と
仙道や海道の弱小国人一揆同盟
これらの結果、奥州には一定のコンセンサス合意による自治が出来上がってた。
そしてそれを保障するのが婚姻による親戚化。
702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 16:08:30 ID:RzWPDvJc
大内定綱なんて、あんな目に遭ってるのに、後に政宗に帰参してたりするね。これも
東北独特のふいんきって感じなのか?
まあ、今川氏真や立花宗茂だって、敵対して領地を奪った人物に帰順してるから、
独特のことじゃないのかも試練けど
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:22:59 ID:VlM5xoKq
大昔のウェールズ人を思い出した
親族間/ご近所間で、家や畑の敷地問題でお互いに気軽に訴訟を
起こしては、gdgdにして手打ちって泥沼を延々やってたらしい
おまえら手打ちと称して宴会したいだけじゃねえのかと思うくらい
実利の見込めない不毛な争いを、世代超越しつつ年がら年中やってたって
実は東北人のこれも宴会を前提としたちょっぴり過激な親族間
コミュニケーショn(ry
704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:40:30 ID:syOZhw/D
>>701
そもそも奥州には北畠顕家の作った郡検断制度が先にあって
それに合わせるように斯波から始まる奥州探題が分郡守護を散撒いている
705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:43:45 ID:W5ZYd0he
役職増やした方がご褒美で与えられるものが増えるからね
信長が茶道具に法外な価値を与えたのと同じ
現在の国会議員数が多すぎるのと同じ
706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:45:15 ID:RzWPDvJc
>>698
しかしまあ、そんなお約束があるのに、秀忠相手に「会心の合戦は、安積表の戦い」と政宗が自慢するとか
佐竹義宣もポカーンとするわけだ
712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 20:19:13 ID:yeNd68kq
後世の奥羽越列藩同盟のgdgdっぷりを
予感させるかのような社会構造だな
東北や関東の戦国時代までの武士団の動きを考えるには、
この地方独特の社会構造だった『洞』の概念を理解しないと難しいだろ
えらそうに言ってて俺も半端にしか理解してないから解説できない訳だが
一番典型的な『洞』は千葉氏支配下の下総だよな
天正十八年までの小田原征伐まで、
古河公方支配の北西部除いてまったく千葉氏諸侯の勢力地図が動いてない
691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:12:13 ID:fv4q6Qq3
>>690
洞中がどうこう言い出したのは、市村高男氏だが
その研究自体ほとんど進んでないようなもんだからな。
日本で、誰も理解できてる人いないかもね。
「奥羽常陸下野下総の在地勢力は、領土獲得を目的とした戦争はしなかった」というのが、唯一言えることか。
693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:33:36 ID:b/Ep7tYx
つまりそれらの地域では「合戦」が軍事行動ではなく、警察行動だった、と考えるべきかな?
694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:37:57 ID:W5ZYd0he
八百長だな
上の人間(公方とか守護)に「まじめにやっていますよ」とアピール
実際は「戦争なんてやってらんね~」
695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 11:50:38 ID:wYWjygPp
公方やらから役職とかを得て、他人の土地訴訟の仲裁する権利を得た方が、美味しいことだったとかかな?
政宗が凄い勢いで拡張していった方が、あの地域では異常な事態とも言えるのかな
696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 12:53:13 ID:fv4q6Qq3
この地域では、同一氏族の中での内乱は、年中行事のようにやってた。
また、氏族内乱の一方に加担して、他領に攻め込むことも一般的だった。
しかし、別の氏族の本領を侵略することは、ほとんど行われていない。
せいぜい、和睦の際に養子を送り込むくらい。
だったら、藤木久志氏が言うように、略奪が主目的で攻め込んでいたのかと考えたくなるが、
前述の市村氏はこの藤木説に批判的なんだよね・・・
この地域では古河公方が強い影響力を持ってたので
戦いが決着する前に、すぐ調停してしまうというのが大きいかもね。
地域の暗黙の了解を破って、憚ることなく侵略行為を始めた政宗が、いかに異常で危険な
存在だったかということだよね(褒め言葉)。
697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 13:32:54 ID:LqPdsv7K
あと暴力団の抗争にも似てるよね
相手の頭のタマ取るまではあんまりやらなくて、
ひとしきり抗争して優劣がはっきりしたら詫び入れて頭が引退して、
勝った側の組長と負けた側の新しい組長が親分子分の杯交わせばオシマイ
負けた組のシマは基本的にそのまんま
各暴力団は二次団体三次団体と連なって緩やかなつながりを持っている
時には敵対団体だけじゃなくて、傘下の組織同士でも抗争が起きたりもする
もちろん二次団体が三次団体四次団体引き連れて独立抗争はじめたりもする
たとえば伊達晴宗の時代の最上さん家の楯岡さんでいえば、
広域指定暴力団伊達組最上会天童一家楯岡組みたいな
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 14:20:27 ID:PC3WUeH6
いや戦乱があっても、そこそこのところで和睦が入るのが
奥州の流儀って言う中間人制度だよ。
これは政宗も利用してるから、政宗も奥州のルールの枠内からは出てない。
それを表すのがたびたび行われる石川や相馬や岩城や田村清顕や伊達実元が
人取橋の戦いや郡山の戦い(窪田の戦い)での和睦斡旋をする行為。
今の目からみるとなんでそんな中途半端なって和睦だけど、
当時の奥州人のは当たり前の行動。
これが佐竹義重が伊達を追い詰めないで、
そこそこ痛めつめたら和睦に応じる姿勢。
この奥州の流儀がじょじょに破綻していくのが
秀吉政権の影響力の奥州への進出の深化と比例していく。
この中間人制度が奥州に一定の秩序と安全を保障していた。
699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 14:23:42 ID:JJA+lQ+D
そもそも、何が目的で戦闘してたんだろうかw
和睦したいからかww
700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 14:40:39 ID:fv4q6Qq3
>>699
それが本当に謎なんだよな。
こういう戦争のやり方してたから、小田さんみたいな人でもしぶとく生きながらえた訳なんだけど。
701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 15:02:14 ID:PC3WUeH6
でも不思議なのは
中間人制度って
初期の惣無事令と共存してるんだよねコレ。
惣無事で中央から直接に裁きを受ける前に
俺達でなんとか処理しようぜみたいなw
惣無事令を大儀名分にしつつも直接指示は受けないようにしてた。
たぶん権威の乱発による分郡守護や探題制度の崩壊と
仙道や海道の弱小国人一揆同盟
これらの結果、奥州には一定のコンセンサス合意による自治が出来上がってた。
そしてそれを保障するのが婚姻による親戚化。
702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 16:08:30 ID:RzWPDvJc
大内定綱なんて、あんな目に遭ってるのに、後に政宗に帰参してたりするね。これも
東北独特のふいんきって感じなのか?
まあ、今川氏真や立花宗茂だって、敵対して領地を奪った人物に帰順してるから、
独特のことじゃないのかも試練けど
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:22:59 ID:VlM5xoKq
大昔のウェールズ人を思い出した
親族間/ご近所間で、家や畑の敷地問題でお互いに気軽に訴訟を
起こしては、gdgdにして手打ちって泥沼を延々やってたらしい
おまえら手打ちと称して宴会したいだけじゃねえのかと思うくらい
実利の見込めない不毛な争いを、世代超越しつつ年がら年中やってたって
実は東北人のこれも宴会を前提としたちょっぴり過激な親族間
コミュニケーショn(ry
704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:40:30 ID:syOZhw/D
>>701
そもそも奥州には北畠顕家の作った郡検断制度が先にあって
それに合わせるように斯波から始まる奥州探題が分郡守護を散撒いている
705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:43:45 ID:W5ZYd0he
役職増やした方がご褒美で与えられるものが増えるからね
信長が茶道具に法外な価値を与えたのと同じ
現在の国会議員数が多すぎるのと同じ
706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 17:45:15 ID:RzWPDvJc
>>698
しかしまあ、そんなお約束があるのに、秀忠相手に「会心の合戦は、安積表の戦い」と政宗が自慢するとか
佐竹義宣もポカーンとするわけだ
712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/04(日) 20:19:13 ID:yeNd68kq
後世の奥羽越列藩同盟のgdgdっぷりを
予感させるかのような社会構造だな
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コメント
人間七七四年 | URL | -
平沼騏一郎氏の「欧州の情勢は複雑怪奇なリ」って言葉を思い出したwww
(奥州繋がりで)
( 2010年07月05日 04:17 )
人間七七四年 | URL | f0nr9fNM
欧州の方は、日本的なgdgdと同列と言えるかどうか分らないが、
欧州も奥州も、その昔、確かに隣国他国同士、
血縁婚姻関係でパワーバランスとってたトコはあるしねw。
( 2010年07月06日 00:49 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
その結果
欧州→英仏百年戦争
奥州→洞の乱
ですね、わかります。
( 2010年07月06日 02:12 )
人間七七四年 | URL | -
米3
洞の乱って言葉は面白いなw
使えるかも。
( 2010年07月06日 10:48 )
三 | URL | xtc7akX2
市村高男氏の論文を大いに参考にして卒論を書きました。
私の結論は、惣領制が崩れ下克上が進んだ他の地域と異なり、鎌倉府・古河公方の影響下のもと、惣領制を維持するための策として地縁血縁の半独立を認めつつ支配下におさめる「洞」を生み出したとしました。
佐竹氏は南陸奥地域を攻め取るとそこを直轄化し、洞中に依存しない体制をつくることによってやっと戦国大名らしく行動できるようになります。
まぁ、あくまで自論ですし、その後研究の場から離れましたけどね。
( 2010年07月07日 10:16 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
※4
洞の乱ってのは天文の乱の別称だよ
( 2010年07月11日 04:58 )
名無しの日本人 | URL | -
どっかの複数の部族が豚育てて、
豚が育ちきったころに戦争初めて
豚肉宴会で手打ちってのを
定期的(豚の食べ頃)にやってたらしいって話しか連想しなかった。
( 2014年09月23日 12:59 )
人間七七四年 | URL | -
変な制度だな
普通に争えばいいのに
( 2015年12月02日 05:46 )
人間七七四年 | URL | -
普通にやっちゃうと秩序が維持できなくるんじゃ…変ってわけでもない。
( 2017年08月03日 02:32 )
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