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成田家顛末

2010年07月27日 00:00

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:48:42 ID:qC4VEF+U
この話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3382.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1812.html
の別バージョンです。重複する部分が多いですが、ご了承ください。

山内上杉憲政は川越夜戦以来の北条氏の圧迫に耐えかね、越後に逃亡。長尾景虎(上
杉謙信)に山内上杉家の家督を譲るコトになった。

景虎が上杉家の当主として関東にやってくると、関東の諸将はこぞって景虎に従い、
進んで人質を差し出す有様であった。
武州忍城主、成田長泰も三男若枝丸を上州厩橋城に差し出し、家老手島美作守を付き
添いに付けていた。

しかし、景虎が小田原城を包囲し、関東管領就任を神前にて報告する儀を行った際、
景虎は長泰が無礼を働いたとして諸将の面前で罵倒する。
面目を失い、怒り狂った長泰はその夜、配下の軍勢を引き連れて忍城に帰ってしまっ
た。
関東諸将も景虎の行為に思う所があったのか、景虎の許しを得るでもなく、勝手に小
田原の包囲を解き、自領へと帰ってしまったという。
そればかりか、越後兵のみとなってしまった景虎の退却を狙って襲い掛かる者まで出
てくる始末で、足の遅い荷駄隊に大損害を負って厩橋城に逃げ帰るハメとなった。

こうなると微妙な立場になるのが人質の若枝丸と手島美作守。
長泰は小田原からの撤退を開始すると同時に松岡と嶋田という二人の家臣を厩橋に走
らせ、景虎と手切れになったコトを手島に伝えた。

厩橋城では未だ鎌倉での出来事は伝わっていない。
折りしも風雨の激しい夜であり、平和な夜を満喫していた守備兵の隙を突き、手島と
松岡、嶋田の三人は若枝丸の身を奪って厩橋城を抜け出し、忍城に逃げ帰った。

景虎は撤退戦の最中、武州府中まで来た所で厩橋城に向けて「人質を始め、成田の家
人全員を打ち殺せ!」と使者を出したが、彼等が上州についた時には既に人質は忍城
に逃げ帰った後であった。


上記まとめの逸話では長泰の次男が人質という事になっているが、「成田記」では妾
腹の三男が人質になっており、手島と共に生き延びている。
この三男・若枝丸は後に成田泰蔵(やすただ)を名乗っている。

そして話は後半、家督継承編へと続く。


162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:49:43 ID:qC4VEF+U
時は流れ老境に差し掛かった成田長泰。
しかし長泰は未だ家督を長子・氏長に譲ろうとはしなかった。
実はそれにはワケがある。

長泰の愛妾は配下の豪族・曽我刑部丞の娘で、旭局と呼ばれていた。
長泰は忍城外の皿尾に屋敷を構え、そこに旭局を住まわせていた。
この旭局の生んだ子供こそが、厩橋城に人質として差し出された若枝丸こと、成田泰
蔵だったのである。

長泰はお気に入りの愛妾が生んだ三男を、二人の兄を差し置いて後継者にしようと企
んでおり、泰蔵がしかるべき年齢になるまで、自分が何としてでも家督にしがみ付く
つもりでいたのだ。

皿尾の屋敷に入り浸る長泰と旭局、そして曽我刑部丞とその仲間の五十子太郎左衛門
らは氏長を除く相談を繰り返していたのだが、どうしても家中が泰蔵の元で纏まると
は思えなかった。

「それもこれも手島美作のせいだ。ワシの言葉は家中では絶対だから、ムリを押し通
せば泰蔵に家督を継がせるコトは可能だろう。だが、ヤツだけはワシにも平気で逆ら
う。ヤツの諫言がある限り、配下の者共が泰蔵に大人しく従うとは考えられぬ」

「だったら私が、何のコトはない普通の喧嘩のフリをして、手島にイチャモンをつけ
ましょう。まさか手島も、そのような喧嘩で斬り捨てられるとは思ってもおらぬでし
ょう」
と旭局の父、曽我が言う。
それは良い、皆が頷いて計略は決まった。

しかしその話を、成田家の奥に仕える女中が聞いてしまった。
この女中、手島美作守の弟の娘……つまり姪であったから、すぐさま伯父の元へ陰謀
を報せた。

報せを聞いた手島は、慌てて氏長に報告し、氏長の叔父(長泰の弟)である泰季と共
に対策を練った。
成田家中一番の武断派であり、猛将として知られた泰季の策は簡潔明瞭であった。

「兄貴は今、皿尾にいるんだから、城門閉めて追い出しちまえばいいんじゃね?」

最早計略は成った、とばかりに旭局や曽我、五十子と心行くまで酒を飲み交わした長
泰。上機嫌で忍城に帰ってきたら城門が開かない。
何事かと番兵を詰問しても「良く判りません。自分は何も知らされてませんので」と
いう答えが返ってくるばかり。

ひとまず長泰は成田家の菩提寺、竜淵寺に退去してそこに落ち着いた。
住職が使僧として忍城にやってくると、
「旭局と陰謀を企ててるの、知ってんだよ? 何なら今からそっちに行って、腹切っ
て貰ってもいいんだよ?」
氏長の言葉に長泰は悔しがり、成田家の一門会議で氏長の家督が認められたという報
せにガックリと肩を落とした。

小田原の北条家からは
「息子のくせに生意気だよね、しかも、喧嘩するにしても留守中に城から締め出すっ
てどうなのよ。氏長を殺すつもりがあるなら北条家からも兵を出してあげるよ?」
と支援の申し出があったが、流石にコレを受け入れたら成田家は北条に乗っ取られる、
というコトは理解出来たのか、「これからは成田家当主として、氏長をお引き立てく
だされ」と支援を断ったという。


163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/25(日) 23:51:33 ID:qC4VEF+U
ちなみに彼等のその後。

成田泰蔵は氏長が家督を継ぐと出家。泰蔵院の開基となる。
旭局の父、曽我刑部丞は切腹。旭局や五十子がどうなったのかは伝わっていない。
手島美作守はその後も成田家の一番の重臣として氏長に仕え続ける。

越相同盟の際の上杉輝虎(謙信)の書状が残っている。その書状は手島美作守の息子
に宛てたモノである。
「正月用品の贈り物、ありがとう! こないだお父さんが亡くなったのは残念だケド、
君もお父さん同様、上杉家の為に働いてくれると嬉しいな!」
勿論、手島美作守が上杉家の家臣になったというコトではなく、成田家における、対
上杉外交の窓口が手島だったというコトである。
現代人の我々から見ると、人質と共に逃亡しておいて、ぬけぬけと外交窓口を務める
というのは少々奇異に見えるのだが、当時はこーゆーコトもありだったのだろうか。

まとめの逸話では氏長の家督相続と引き換えに手島美作守は追放されているのだが、
「成田記」やこの手紙では「その後ますます重用されましたとさ」という現実が記さ
れている。
小田原仕置きの直前に作られたと見られる「成田分限帳」には手島美作守の息子と見
られる手島美作守長朝が三千貫文を与えられている。
これは御家門、譜代侍通じて最高であり、次席が本庄越前守らの一千貫文であるから、
如何に厚遇されていたのかが判ろうというモノだ。

最後の方は逸話じゃなくなったかも知れませんが、「埼玉県史・史料編」をパラパラ
めくってたら輝虎→手島の手紙があったので何となく。(^^;




164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 01:57:13 ID:zbQHkx5o
単に本当は手嶋と成田息子は謙信の所から逃げた訳じゃなくて
穏便に帰ってきただけなんじゃね。
人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて
当時はザラだし。
逃げ帰ってきたという設定になってるから
現実の手紙と付き合わせると変なだけで。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:40:52 ID:gqUnGhu9
>人質っていっても厚遇されて人質先の家と仲良くなって帰ってくるなんて当時はザラだし。

黒田長政「え?そうなの?」

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:44:02 ID:R7D/Gneb
昭襄王「うそっ!」

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 02:56:25 ID:gqUnGhu9
真田信繁「上杉だって豊臣の家臣だし、豊臣の人質になっても別にかまわないよね」

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 06:54:35 ID:wZplVkFd
むしろ悲惨な例を知りたい


169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:31:03 ID:L87cm11x
荒木村重とか松永久秀の子供

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:35:02 ID:wZplVkFd
それ人質としてはまっとうな使い方じゃね


171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:38:01 ID:0C6O+kZr
佐々成政の娘とか松平清善の娘とか
木曾義昌の子供と母親とか

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:41:11 ID:0C6O+kZr
>>170
まっとうな使い方じゃなくて悲惨って何や
厚遇されたが故に悲惨な末路になったってこと?

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:44:14 ID:rlNDoF6m
織田信孝なんて秀吉に母、妹、息子、娘、側室、重臣の母親まで処刑されてる
中国の王朝交代時並だ

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 07:46:58 ID:L87cm11x
>>173
人質じゃないだろそれ

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 08:54:28 ID:lyRv77rm
>>164の言う通り、軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。

181 名前:161-163[sage] 投稿日:2010/07/26(月) 18:08:25 ID:TtC9C/fZ
>>164
>>177

>>軍記物と史実をごっちゃにして話を作ると、そりゃ整合性がとれないわな。
うん、自覚はしてる。(^^;
っつーか元々、
「だからこの逸話が本当にあった事とは思えない」とか、
「相続争いは北条派の氏長と上杉派の泰蔵(を押す長泰)の争いだったんじゃないか」とか
色々と書いてたのよ。
投稿する時に読み返して、さすがに逸話スレでする話じゃねぇな、と思ってマズそうなトコ
だけ削除して投稿したの。
そしたらあーゆー中途半端な残り方をしてしまった、と言う僕の情けない話。

輝虎からの書状のくだりは全部カットするべきだったか……
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コメント

  1. 御神楽 | URL | -

    史実の話もあったほうが面白いよ。
    あんまり喧々諤々やるのはアレだけどw

  2. 人間七七四年 | URL | -

    最上とか上杉関係で逸話でも史実でもなんでもない作品が多くなってるからな。

    それに比べれば全然いい。寧ろ良かったと思う。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    史料に忠実に史実を語るのは歓迎だし、
    覚書や軍記に載ってる逸話を書くのも面白い。

    ただ、両者を混ぜて書くと色々問題が起こるのも確か。
    まあ、それでも面白けりゃいいんだけどね。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    家康は結構悲惨じゃなかったっけ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    巷談の紹介があった上で、史実の検証もあるなんて、
    最高じゃないですか。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    確かにごっちゃは理解するのに時間が掛るかもしれない。
    けど、最近の逸話の中では中々の出来だと思う。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    逸話も史実も押さえてて、しかもグチャグチャになってない。感心しました!

  8. 人間七七四年 | URL | -

    家康本人は悲惨でもない、今川の一門衆に準ずる扱い。

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