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直江兼続の「戦のやりかた」

2010年08月11日 00:00

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 00:30:25 ID:vKf71HvF
流れは直江の悪い話か?
と思って色々書いてたら、その流れは終わってしまった。(^^;
まぁ、あまり気にせず読んでくだされ。


関ヶ原の合戦に向け、東軍が続々と尾張・美濃に集結しつつある頃。
会津の上杉家では山形の最上攻めが決定された。

「もし三成が敗れた時、会津は攻め口が多すぎるので、守りづらい。最上を滅ぼし、
山形、東根に篭れば天下を相手にしても十分戦える」
と言うのがその理由である。

景勝は「上杉は敵に囲まれている」と言って大軍を動かすコトを渋っていたが、直江兼続の強硬な主張の前に、
やむなく陣触れを発するコトとなった。

山形遠征軍は直江兼続を総大将とした四万。戦目付けに杉原親憲がつき、コレとは別に庄内からも別
働隊が最上領を目指した。

直江の居城、米沢に集結した軍勢は北上。対する最上側は一つ一つは小さいながらも多くの城郭群の連携で
主城、山形城を守る構えであった。

ここで山形の地図を見ていただきたい。現在のモノで構わない。
米沢から山形まで、大勢の人馬が進軍出来る道など、限られているコトが判るだろう。と、言うか一つしかない。

米沢→南陽→上山→山形

という現在のJR奥羽本線沿いに北上するルートである。
勿論、事前の軍議ではこのルートを使い、上山城をまず攻略する手筈となっていた。

しかしココで、
「先祖伝来の領地を安堵してくれるなら、そちらに寝返ります!上杉軍の攻撃に合わせ、城の中から
最上軍を追い出して見せましょう!」
という手紙が届いた。

この手紙の主は畑谷城主、江口五兵衛の配下につけられた豪族。
畑谷城とは、現在の山辺町。山形城からみて、ほぼ真西に位置する山城であった。

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 00:31:19 ID:vKf71HvF
その日の内に、全軍に転進が告げられる。街道を外れ、山道を踏破して山形城の真西、
畑谷城を攻撃するというのだ。

戦目付けの杉原親憲、自分に何の相談もなく転進命令が出たコトに激怒。

「全軍転進って、おま…アホかいっ!?畑谷城なんか小さい城じゃねぇか!しかも内応があるんだろ?
一部隊だけ派遣しておきゃいいじゃん!四万の軍勢だぞ!小さい山城相手に、四万の軍勢が
どう攻め寄せるんだ!?そんなスペースねぇぞ?行軍だってどれだけの苦労があるか……千や二千の
軍勢を率いてるのと勘違いしてんじゃねぇか?」

が、日頃から杉原と仲の悪い直江(この本じゃそーゆーコトになってます)、

「アンタの言うコトが正しいってのは判るんだケドね、ホラ、小人は目の前のコトしか見えないって言うじゃん?
オレもそうなの。アンタみたいなお利口さんじゃないから、目の前のコトしか考えられないんだよねぇ」

と取り合おうともしない。

これ以上言っても無理だ。諦めた杉原は自分の陣屋に引き下がり、
「直江のヤツ、小姓から家老まで登り詰め、秀吉公の覚えも目出度いからと言って、主君を軽んじ、
家康公を侮り、上杉家の処置を自分の都合良い様に捻じ曲げている。
しかも、それが出来るだけの才能があるヤツだから始末に悪い。この度の天下の大乱、すべて
直江と治部三成、二人の為した所業。このオレ自身を含め、直江を抑える者が一人もおらぬとは上杉家も末だな」
と、涙ながらに周囲に漏らしたという。

畑谷城は結局、上杉の大軍と件の内応とによって、江口五兵衛以下、玉砕。
しかしこの山道の行軍によって、三~四日のロスが出てしまい、長谷堂城の防備はその間に
完璧に整えられてしまった。
また、最上義光本人の援軍も、伊達政宗からの援軍も長谷堂城周辺には既に集結していた。
結果から言うと、致命的なロスと言っても良いかも知れない。

また、上山城をスルーしたコトも大きな失策であった。その後、本隊が長谷堂城を包囲している間に、
上山城にも攻撃を仕掛けるのだが、遂に陥落するコトはなかった。

米沢→南陽→上山→(長谷堂城)→山形

先程の位置関係に当てはめると上記の様になる。
撤退戦をしなければならない状況で、まさか来る時同様、山中の間道を踏破するというワケにはいかない。
つまり、長谷堂城からの撤退をする際には、嫌でも大きな街道を使わなければいけないワケで、
それには敵の手にある上山城下を突破しなくてはならないハメになったのだ。


なんて言うか……戦のやりかた見ても、三成と同じ臭いがしてくるんだが、コイツ。




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 01:06:46 ID:b49sT5xC
>>393
『会津陣物語』(『東国太平記』)の話だっけこれ?
関ヶ原合戦時の兼続の動向については、いろいろ言われることがあるにせよ、
蒲生を三成と兼続がぐるになって毒殺したとか、両者で天下を山分けしようとか、
奸物として、かなり悪意のある描き方をされてるんだよね。

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 01:36:33 ID:Z0rCRL5A
>>395
その類の話は川角太閤記で既に載ってたな
結構早い段階で噂にはなってたようだ

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 01:40:51 ID:JtDnxsV7
関が原で西軍が負けたからってすぐに東軍が会津に殺到する訳じゃないし
最上如きに追撃うけて逃げ帰るようじゃ兼続の采配も推して知れる

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 02:18:55 ID:Pbe0ER0G
天下の三陪臣、直江は大気と勇気はあるが知恵に欠ける・・・か

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 07:18:29 ID:+YqEazOE
直江「きいたふうな口をきくなー」

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 09:27:00 ID:bePCVUV4
まさにそれが知恵に欠け、だな
知者は賢しらな連中もうまく使うだろ

401 名前:393-394[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 13:33:00 ID:vKf71HvF
>>396
出典は395の言う通り「会津陣物語」。
幕府に対して「上杉悪くないヨ!悪いの全部直江ヨ!」ってコトを主張する書物
だから、工場長暗殺ってのも「会津陣物語」オリジナルの創作かと思ってました。

「川角太閤記」で出てるんですか。
考えてみたら「太閤記」って昔、子供向けのを読んで以来だよなぁ、太閤記にも
色々あるってコトも知らず。
なんか、改めて各「太閤記」を読み比べしてみたい気がする。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 13:53:25 ID:Or3+ctT2
太閤記比較表

・甫庵太閤記:豊臣秀次などに仕えた小瀬甫庵の作。事実よりエンタメ性を重視する傾向を持つ。
         晩年に仕えた前田家ヨイショが目立つ。

・川角太閤記:江戸初期、川角三郎右衛門が、当時未だ生きていた秀吉の周辺にあった
         武士などから取材した豊臣時代に関する証言集。
         史料性は甫庵太閤記より評価されてたりする。

・絵本太閤記:江戸中期、川角太閤記を元に文・武内確斎、絵・岡田玉山で出版された
         エンタメビジュアル小説。
         現在の世間的な秀吉のイメージはほぼこの本が源流。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 14:01:15 ID:YV+UU1pT
誰か本当は怖い太閤記~ラスボス編~刊行してくれ


405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 15:58:39 ID:Yhjqj+Au
>>403
つ「妖説太閤記」

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 21:10:20 ID:vZ2QzMCe
>>405
 同意! 
 石川 賢先生、健在なら、最高にスプラッターな妖説太閤記を描いてくれたはず。

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/10(火) 21:44:49 ID:Jf9Lzccp
だれか妖説太閤記を下敷きにして
「やる夫太閤記」を書いてくれないかな~
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | qbIq4rIg

    曰く、
    頭の良い馬鹿ほどたちの悪い馬鹿はいない。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    妖説太閤記は傑作

  3. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    米沢→山形のyahoo航空写真をみたら
    山形、雲に覆われとるw



  4. 人間七七四年 | URL | -

    述べるまでもないかなと思ったけどこの頃の上杉家に別働隊を割いた上に四万もの軍勢を動員できる力がある筈がないよね。だからやっぱりこの話は信用できない。 

  5. 人間七七四年 | URL | -

    >>※4
    お前は何を(ry

  6. 人間七七四年 | URL | -

    >山形、雲に覆われとるw

    これぞ霞城と云われる所以にて、まこと恐るべき山形盆地の魔力なのである。
    上杉勢は、この瘴気を孕む呪いの霧によって気勢を殺がれ、衰弱していったのだ。
    外界の民には有害極まりないが、山形の民は古来免疫を培っているので平気なのである。

    しかし、同様に土地特有である『夏の盆地の暑さ』には有史以来悩まされている。
    特にこの夏は。 死ぬかもしれんね、これは…

  7. 人間七七四年 | URL | -

    この時の上杉全軍の兵力は約十万だったらしい(会津若松の鶴ヶ城の資料より、しかしうろ覚えなので勘弁)
    景勝本隊が約三万、伊達の備えで白石方面守備軍一万、田島方面守備軍一万、越後口守備軍一万

    で直江軍四万だとしたらつじつま合うが、件の別動隊って兵なんぼよ?

    どちらにしろ直江の采配ミスは確定だな

  8. 人間七七四年 | URL | -

    NHKの大河ドラマのイメージでこの話を見ると、

    正義感振りかざした馬鹿

    以外の何者でもないな。戦国の世では周りにとっては非常に迷惑。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    国や時代に関係なく有害だと思うよ>正義感振りかざした馬鹿

    “無能な働き者”と同じくらい周囲への被害甚大

  10. 人間七七四年 | URL | -


    うろ覚えで言う前に調べろ。
    120万石で総兵力10万って、かなり無理な数字。
    撃退した義光顕彰の都合上多めに見積もるはずの「最上義光物語」で庄内勢含めて3万。
    実数はそれより下と見るのが妥当。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    北見「兵力の単位は人ではありません」

  12. 人間七七四年 | URL | -

    なんかの研究で見た話だと、このときの「上杉軍10万」は本来兵として集めたわけではない人間(直前までやってた神指城造営のために集めた工夫・人足数万人)を全て武器持たせて兵として配置したために、石高に対してとんでもない兵数になったって話を見た。
    長期戦やる力はないけど、徳川率いる全国の大名を単独で迎え撃つために無理やり動員したとかなんとか。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※12
    どこの帝国陸海軍だよ…笑えん(>_<)

  14. a | URL | -

    ※12
    ――と、いうより、大軍を持って最上を圧迫させるのが目的であったわけで、つまりパフォーマンス重視だからそんな軍編成になったはず。

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