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蒲池鎮並の殉難

2010年08月14日 00:01

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/13(金) 12:25:13 ID:tQlZLx9p
龍造寺隆信の娘婿に蒲池鎮並という武将がいた。
筑後柳河を拠点とする実力者であり、彼の父は隆信の命の恩人でもあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3917.html
それらの理由で娘の玉鶴姫を輿入れさせていたのだが、なんとなく邪魔になってきたので滅ぼすことにした。
隆信「娘を嫁にやってから、婿殿には一度も会ってないよね。今度、新しい城造ったから、婿殿に見せたいな」

こんな招待状が届いた。
父の人間性を熟知していた玉鶴姫は猛反対したのだが、
鎮並は天正9(1581)年5月26日、家来・芸人など300人を率いて柳河城を出立した。
が、やがて城内に早馬が駆け込んでくる。一行の護衛役の一人だった、吉田歌右衛門であった。

吉田「龍造寺の待ち伏せで、殿様も家来衆も芸人たちも、みんな殺されました!!」

先導役で行列から離れていた彼だけが助かったのである。
さらに隆信は蒲池の家来筋の田尻鑑種を寝返らせ、柳河城攻めを命じた。
蒲池側は篭城して徹底抗戦を選ぶ。この時玉鶴姫は、支城の塩塚城へ避難した。
隆信は玉鶴姫に帰還を命じたが、彼女は父よりも蒲池一族と命運をともにする道を選ぶ。
激怒した隆信は玉鶴姫ごと塩塚城殲滅の命を下した。
玉鶴姫は自害。姫に仕える女衆も、次々に後を追った。その数、108人という。

蒲池攻めについては当時ですら後味の悪い事件だったようで、その後の配下豪族の離反を生んだ
大きな要因となる。
家中ですら、四天王の一人百武賢兼が出陣を拒絶したほどだ。

現在でも、宗樹寺には地元の農民たちがこれを供養した「百八人塚」が残っている。
塚の標識には、「蒲池漣並(鎮並のこと)夫人外百八名塩塚落城殉難の地」と書かれてある。

「悪い話なら俺にまかせろ!」なクマーの話……




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/13(金) 12:38:52 ID:tQlZLx9p
ちなみに逸話と全くなんの関係も無いのだが、
蒲池鎮並の兄弟の子孫が松田聖子である。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    「なんとなく邪魔になった」とはご挨拶だな…

  2. 人間七七四年 | URL | -

    松田聖子のは「自称」ですけどね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    米2
    おっと織田信成の悪口はそこまでだ

  4. 人間七七四年 | URL | -

    そこで織田無道が出てこないとダメだと思うんだ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    そう信成は常真さんの子孫だよ。(家としたら信高の子孫)

  6. 人間七七四年 | URL | -

    そういや、あのインチキ脱税坊主も織田家子孫(自称)だったっけ?
    戦国時代だったら真っ先に御先祖様(自称)に斬られてたな。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    こんな殿様でも一定の忠誠心を持たれるのが凄い世の中だよね~。
    やっぱり平和が一番だわwww

  8. 人間七七四年 | URL | -

    柳川三年肥後三月肥前久留米は朝茶の子♪

  9. 人間七七四年 | URL | -

    米6
    いや、それよりも名前の使用料とかいろいろ理由つけて大金分捕って公共事業に使いそう。
    ノブのそんな逸話あったよね、検校の奴。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    松田聖子の生家は蒲池鎮並の弟の蒲池統安の子孫で、江戸時代は柳川藩家老格の武家。福岡県立柳川古文書館に詳しい史料もある。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    備前ではよくあること・・・



    ホントなんで畳の上で氏ねたんだ???アイツは

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