691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/29(日) 13:11:36 ID:aKLR2lm7
八朔の雛祭り
八朔とは「8月の朔日」、すなわち8月1日のこと。
永禄の頃より、西讃岐の仁尾、吉津、比地中村といった地域は、仁尾城を居城とした
細川土佐守頼弘によって治められていた。
この細川頼弘、経歴はよく解らないのだが、讃岐らしく細川京兆家に連なる人物だったようである。
この地域は戦国とは言え、それなりに平穏に治められていたらしい。
領民たちも頼弘をよく、慕っていたようである。
天正7年(1579)、その平穏がついに破られる。2月に始まった、長宗我部元親による西讃岐侵攻である。
他の西讃岐の国人と共に、細川頼弘もこれに激しく抵抗した。しかし衆寡敵せず
西尾城は落ち、頼弘は切腹して果てた。
この時土佐兵は、仁尾の街はもとより細川家の菩提寺である金光寺など、すべてを焼き尽くしたそうである。
これは3月3日のことだという。
これより後、西尾の町では頼弘や戦死者の慰霊のため、3月3日に雛祭りを行わず、
かわりに旧暦8月1日の八朔の日に、雛祭りもあわせて行うようになった。
これは「八朔人形まつり」と呼ばれ、店舗や座敷に設えた舞台に、箱庭の山川渓谷を作り、人形で
おとぎ話や歴史上の物語の場面を再現したという。
この風習は久しく途絶えていたが、最近になって復活したのだそうだ。
八朔に雛祭りを行う町と、その由来についてのお話である。
八朔の雛祭り
八朔とは「8月の朔日」、すなわち8月1日のこと。
永禄の頃より、西讃岐の仁尾、吉津、比地中村といった地域は、仁尾城を居城とした
細川土佐守頼弘によって治められていた。
この細川頼弘、経歴はよく解らないのだが、讃岐らしく細川京兆家に連なる人物だったようである。
この地域は戦国とは言え、それなりに平穏に治められていたらしい。
領民たちも頼弘をよく、慕っていたようである。
天正7年(1579)、その平穏がついに破られる。2月に始まった、長宗我部元親による西讃岐侵攻である。
他の西讃岐の国人と共に、細川頼弘もこれに激しく抵抗した。しかし衆寡敵せず
西尾城は落ち、頼弘は切腹して果てた。
この時土佐兵は、仁尾の街はもとより細川家の菩提寺である金光寺など、すべてを焼き尽くしたそうである。
これは3月3日のことだという。
これより後、西尾の町では頼弘や戦死者の慰霊のため、3月3日に雛祭りを行わず、
かわりに旧暦8月1日の八朔の日に、雛祭りもあわせて行うようになった。
これは「八朔人形まつり」と呼ばれ、店舗や座敷に設えた舞台に、箱庭の山川渓谷を作り、人形で
おとぎ話や歴史上の物語の場面を再現したという。
この風習は久しく途絶えていたが、最近になって復活したのだそうだ。
八朔に雛祭りを行う町と、その由来についてのお話である。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
まさか、うちの地元の話題が出るとは思わなんだ……
( 2010年08月30日 06:58 )
人間七七四年 | URL | -
するとご当地では怨敵長宗我部なのかな
( 2010年08月30日 11:15 )
人間七七四年 | URL | -
※2 いや…特にそういう感情はないですね、私の友人は普通に長宗我部のファンですし、それはそれこれはこれって感じですね。
( 2010年08月30日 18:59 )
人間七七四年 | URL | -
知り合いのお茶の先生は「この辺は昔『ぜよ(長宗我部)』にさんざん荒らされてな…」って言ってたなー
怨敵、とまでいくかどうかはわからんけど語り継がれてはいるんだなと感慨深いw
( 2010年08月31日 02:18 )
人間七七四年 | URL | -
隣町の話が出るとは
( 2010年08月31日 18:03 )
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