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康政、秀忠を庇う、その後の話

2010年09月12日 00:00

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:28:11 ID:r6UHIq92
その後の話
秀忠が康政をの執り成しに感激したのは言うまでもない。

<中納言どのみづから御筆を染められ、康政がこの度の心ざし、我が家有らん限りは子々孫々に至るまで、
忘るる事あるまじき由の御書を給はりしとぞ聞こえたる>

と『藩翰譜』は述べいる。
また関ヶ原の論功行賞として、家康は康政に水戸二十五万石を与えようとした。
しかし康政は、第一に自分はこの度の秀忠様遅参の責任があり、むしろ切腹がふさわしいのに、かえって
加増されては依怙の沙汰となり、ご政道を誤るもとになる事
次に、水戸は江戸から三十里で、道中二日かかるが館林からば十三里で、一日行程でありいざという時に
水戸では急場の用にたたぬことを理由として、こるを固辞した。
これを聞いた家康は<七枚綴りの御神文>を康政に与え、「徳川家のあらん限り、榊原家のあらん限り、
反逆は格別、外の不調法では、長く見棄てはしない」と誓った。
これが榊原家の家宝中の家宝として、後代まで榊原家を保護してくれることになる。




980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:31:07 ID:/cTJrSdi
家康が中仙道通って、秀忠に東海道進ませればよかったのにな。
後からでは何とでも言えるけど。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:43:41 ID:Z609YSbA
>>978
九州で暴れ回って朝鮮とかでも遠征の経験がある島津だって、不手際で会津征伐や大坂の陣に
間に合わなかったりしてるから
どうなんだろう

秀忠軍の動きは、8月24日宇都宮出発して、9月2日小諸に到着しておきながら、4日に上田城への攻撃開始と
小諸に着いてから2日間は攻撃にかからなかったわけなんだから、29日に江戸を出発した使番が間に合ってれば、
上田城なんて放って置いてさっさと美濃を目指したろうから、秀忠の落ち度じゃないという康政の言い分も
もっともだろうね

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 17:00:50 ID:7gvNHhff
関ヶ原が1日で終わると誰も思ってなかったのかもね

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 17:17:36 ID:NbJlRyax
三成挙兵から関ヶ原まで約3か月あるからね。
大勢力同士と考えると小牧・長久手のような展開になると考えるのが自然かも。
まさか決戦になるとは…


984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 21:59:12 ID:mrgaqRCx
家康自身も色々と迷ってたみたいだしね
秀康を上杉に備えさせ、秀忠に中山道を征させるようで、信吉を江戸に置き、忠吉を東海道に進ませるようで
家康自身は何をしたいのかわかりにくく、福島正則なんかが苛立ったり

結果論として、正則をせっつかせて岐阜城を陥落させたのも計画通りじゃないんだろうしね

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 00:23:09 ID:brNNDpiU
何で経験が少ない秀忠に、木曽、信濃の山奥を移動させたの?
ここに無理があるよ

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 05:18:19 ID:O75TNEj4
>>990
東海道より中山道のほうがメインルートだぞ

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 11:20:16 ID:CN57Rp6T
小山評定で全体の作戦計画を決定した時には、
秀忠率いる徳川譜代の主力の戦略目標は
美濃へ進軍して西軍主力と接敵することすることじゃなくて
信濃で真田を抑えて、可能ならこれを攻略することだったんだよ。

東海道を進軍した軍が木曽川の渡河をほとんど妨害されず、
さらに岐阜城がわずか2日で陥落するという望外の戦果が上がったので、
家康は全体計画を変更して美濃に戦力に集中することとし、
その命令変更を伝える使者を秀忠に送ったっていうのが>977の話。

詳しくは笠谷和比古が本を出してるんで興味があったら読んでくれ。

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 11:40:07 ID:CdM3D0rK
おおー、くわしいのぅ

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 12:39:56 ID:lpn4aqeo
稲葉山城→岐阜城って、なんかあっさり落ちるねw
行った事無いからよくわからんけど、地図とか写真見た感じじゃ登るだけでも大変そうなのに。

995 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/12(日) 12:42:57 ID:O63dT8eT
縄張り的には鉄砲の発達や戦術に対応出来ていない、旧式の山城に過ぎないからな。

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 12:46:55 ID:ZO3cs8no
城なんて守る人と縄張りする人とでまるっきり変わるしな。

幕末でも落ちない化け物城もあれば
誰かさん時代は攻められたら必ず落ちてた城なのに魔改修されたら落ちなくなっちゃった城もあるしw

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/12(日) 12:50:22 ID:BWtKiu2L
笠谷和比古も増水があろうが使者が10日もかかるのは考えずらいと改訂版で改めてるがね。
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    家康が東山道、はないだろうなぁ。
    東海道の諸将がまとめられないし、
    なにより、

    真田に逢いたくないだろ。

  2. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    長期戦できない人がいっぱいいるよな
    細川さんとか黒田さんとかは関ヶ原超えて自領に戻れなきゃ
    迷子軍隊だし

    まぁ西軍も小西・小早川は如水さんに取られてるなw

  3. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    岐阜城は難攻不落言う割には
    6回ぐらい落城してる。
    後、水の確保が難しくて長期の篭城には向かなかったらしい。
    それだから篭城する前に城外にでて闘ったとも言われてる。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    東海道そのものは中山道(江戸期に江戸起点で設定されたもので本来は東山道で高崎から新田、足利と東進し宇都宮より奥州へ。)に対して早い移動に不利。

    関東から美濃(関ヶ原)に行くにはどちらも木曾、長良、揖斐の3川を越えなければならないが、東海道はそれに加えて江戸からだと、多摩、相模、酒匂、富士、大井、天龍(当時東西に分流)、吉田、矢作、矢田と大きな川(しかも最下流)を渡らなければならない。尾張まで東軍勢力圏だけど。
    一方東山道は江戸より諏訪までに入間、荒川、千曲とあるがこれが皆上流、中流で済み、木曾の山道は大変であってもこれが鳥居峠まで木曾川東岸をずっと通っているので美濃加茂と金山(鬼武蔵の領地)で木曾川を越えて長良、揖斐と越えれば済む。
    本来は川留めを考慮すれば渡る回数の少ない中山道の方が速く移動できるはず。このため幕末でも和宮は中山道を通った。

    現実には中山道側のみが雨で川留めされてしまったわけでこれが誤算。西軍が易々と木曾、長良、揖斐と渡河を許したのも超誤算。撤退した墨俣は長良川と揖斐川の間、止めようとした杭瀬川は揖斐川本流の西側の支流。やっぱり西軍にやる気が感じられない。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    >>3
    信長が落とした時は野戦で完全にケリが付いていた。

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