FC2ブログ

康政、秀忠を庇う

2010年09月12日 00:01

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:09:36 ID:r6UHIq92
康政、秀忠を庇う

慶長五年九月十五日、関ヶ原において東西両軍がいわゆる<天下分け目の戦い>を繰り広げたわけであるが、秀忠率いる中山道を経由してきた軍勢は、ついに間に合わなかった。
上田城で真田親子に足止めされ、それに時間を空費したためである。

秀忠が美濃赤坂に到着したのが十九日、家康本隊に近江草津で追いついたのが翌二十日であった。
しかし家康の本陣が大津に移ったと聞き、さらに大津まで走って面会を乞うたが、家康の立腹は甚だしく、
三日間、対面を許さなかった。
このとき死を賭して秀忠の弁明をしたのが、秀忠と共に中山道を進んで来た康政であった。
単身家康を訪れた康政は、まず関ヶ原遅参の全責任を自分に引きかぶり、同行した本多正信らの落度には
一切触れずに、家康からの出陣の連絡が遅すぎたことを陳情した。
「そんなことはない」と家康は答えて、八月二十九日に江戸を出発させた使番に「九月一日、
家康は江戸を発つから、秀忠も急ぎ美濃で来会せよ」と伝えさせたことを主張した。
そこで康政はその使番が七日に小諸に到着したことを告げ、「そのため秀忠様も驚き、日本第一の難所と言われる
木曽の細道を、大雨の中、大軍をひきいて一日に十五、六里も御馬を進めたのです」と説明した。
驚いた家康がその使番に確認すると、長雨で河川が氾濫し、遅参したことが分かった。
次に康政は、親子であれば色々と子供に教訓を与えるのは当然だし、その時に腹を立ててしまうこともあるであろうが、
既にに立派に成人し、将来は天下の政治も執ろうという秀忠様を、弓矢の道においては未熟者だと御父君も
不満に思われたなどと、 他人の侮りを受ける事があっては秀忠様だけでなく大殿ご自身の恥辱にもなりますれば、
なにとぞその辺までご考慮いただけないのは、
残念でなりませぬと、涙を流して諫めたので、家康もようやく許し、二十五日に伏見で、秀忠に対面し戦功をねぎらった。




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:24:21 ID:KguR0LMZ
遅参した理由の最大の原因は軍資金不足があるんだよな。
正信が決定的な場面にいなかった理由はそれだし。

1:初陣の総大将 2:軍資金不足で足止め食らってる 3:ストッパー役の不在 4:真田に因縁がある武将 
5:相手は真田

実は普通に無理ゲー。康政さんが徳川無しからぬ振る舞いしない限り泥沼から抜け出せられない状態。
康政にしてみれば、もう一人のストッパー役果たせなくて責任引っかぶるという気持ちにはなるわな。

中仙道方面の家康の扱いが、それなりの豪華メンバーそろえたわりには、実は粗略だった気がするわな。
実は徳川軍、実質的な遠距離遠征は初めてなんじゃね?
スポンサーサイト





コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    徳川方はきちんとした後方支援とかが全く出来ないためギリギリまでやばかったと言う話しを聞いたことがある

  2. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    諏訪→塩尻と抜ける道をあるいてみたけど
    塩尻峠はどう見ても万を超える軍隊が通れそうにみえないんだよなぁ
    現在の国道20号じゃなくて旧道のほうだけど
    こっちも関ヶ原戦後に開通ってあったから
    もっと違う道があったのかもしれんけど

  3. 人間七七四年 | URL | -

    君主が見てる前で無いとまともに戦争できないイメージの徳川軍

  4. 今日も名無しさん | URL | -

    そもそも徳川軍って弱いイメージしかない
    関が原だって戦ったのは徳川じゃないし

  5. 人間七七四年 | URL | -

    4は何を言ってるんだ?徳川全部の戦を調べて回ったの???

    デフォ以外で名前書く奴って変な事ばっかり書くよな。
    インターネット使ってる癖に、調べれば分かる程度の事を「自分の感覚」でしか語らない。例えば年代の違う奴を登用しろとかw

  6. 今日も名無しさん | URL | -

    今川に顎で使われ、武田にはクソミソに敗れ、織田には恐れ服従し、
    豊臣には位打ちで招集され、朝鮮にも行かず、関ヶ原でも大阪の陣でも諸大名頼み

    これで強いとか笑えるんですけどw

  7. 人間七七四年 | URL | -

    978の言う様に、徳川軍主導の長距離遠征って意味では始めてかもしれないね。
    しかし小平太の言う事はいちいち正論だな。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※6

    いやそれ武田以外徳川軍の強さと直接関係ないじゃんw

  9. 人間七七四年 | URL | -

    アンチは放っておくべし

  10. 人間七七四年 | URL | -

    徳川が戦ったのじゃないのなら、信長・秀吉だって他家の大名や武将使ってる気がするのだが・・・?まぁ何にしても4・6は今迄でろくな事書いてないから放って置きましょwww

  11. 人間七七四年 | URL | -

    どっちがアンチだかw
    事実を突きつけられたら個人攻撃w

  12. 人間七七四年 | URL | -

    徳川は弱い→その徳川に負けた……ゲェッ、鬼武蔵!

  13. 人間七七四年 | URL | -

    でも徳川って、後に天下を取ったから「強い」「強い」と言われてるけど、
    実際の戦績はしょぼいよな。

    真田に何度も負けているのだって、真田が強いというのもあるけど、
    徳川軍がそんなに強くないってのもあると思う。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    結局最後まで生き残ってた奴が一番強いでいいと思うよ強さ比べになるときりがないし結局の所どんな負け戦でも不思議と生き残る天庵様が最強って事で決まりだな

  15. 人間七七四年 | URL | -

    今川織田豊臣に屈したことは全く徳川軍の弱さの理由になってないな。
    当時の情勢と力関係考えたら戦闘力以前の問題。

    ここでいう「軍の強さ」が、財力や政治力を含めた総合的な
    国としての軍事力の大きさのことを指してるんなら別だけど。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    てか、軍の強さってのはおっ始まってからの喧嘩の強さで比べてもしょうがないんだよ。
    そこへ至るまでの政治・戦略とどうしても切り離せない。

    信長軍が強かったのは、戦略・戦術を駆使して、いざ開戦という時には
    7割方勝敗が決しているような状況へもっていける能力が(もちろん運も)凄かったから。

    しょぼく見えようがパッとしなかろうが、滅びることも瓦解することもなく
    勝てる戦を確実にものにしていった徳川軍は、やっぱり強い軍隊なんだよ。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    強い奴が勝つんじゃなくて、勝った奴が強いんだよってどっかのドイツ人が言ってた。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    個々の戦闘力が高いのが強いのか、
    戦場での采配が上手いのが強いのか、
    戦争になるまでの下準備が完璧なのが強いのか…

    強い軍ってどんな軍なのか分からん

  19. 人間七七四年 | URL | -

    天庵様「天よ見たか! ワシは弱くて負けたのではないぞ!」

  20. 人間七七四年 | URL | -

    俺は三河者だが、正直家康は戦上手とは思えないなあ。
    戦績もそれ程でもないし。
    それを補えるだけの政治力と運があったんだろうと個人的には思ってるけど。

  21. 人間七七四年 | URL | -

    徳川軍オンリーの戦績となるとでかい所では三方が原、駿河侵攻、小牧位か?

  22. 人間七七四年 | URL | -

    21
    天正天午の乱はすごく鮮やかな活躍したと思う。
    地味だがw

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/4631-04bb8191
この記事へのトラックバック