869 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 09:58:42 ID:12cbe6vc
『こだわる理由~小田の可能性~』
氏治様が小田城にこだわっていたのはご存知の通り。
しかし、佐竹等もこの地にこだわっていた。だから何度も争奪戦が繰り広げられたのだ。
統治も面倒ならいっそ放っておけば良かったものを。
氏治様がこだわるのは『先祖代々の土地ゆえに』でも通るが、他の方々は一体どんな理由からだったのか?
その理由は、実のところ当時の小田領のスペックは異常で、『常陸の中心』,
『小田を征する者が常陸を征する』という考えが、恐らく存在したからだという。
…現在の小田を見ると、『これで中心とか?地元贔屓バロスw』と思ってしまいそうだが、
戦国期よりもっと以前の資料から以下の事が分かっているという。
今でこそ淡水である霞ヶ浦だが、ほんの昔までは海水の入る海であり、『香取の海』と呼ばれていたという。
しかも、霞ヶ浦は太古の広さから少しずつ規模が縮小されて今の姿となっており、1300年頃
は小田城のすぐ横まで水が来ていた。
その霞ヶ浦の『海辺』へ、小田氏四代時知と極楽寺の忍性が協力し、何十という箇所に港を作った。
この港には、鎌倉をはじめ全国から船の往来があり、この地に居ながら全国の特産物等が手に入ったという。
これに加え、忍性の手引きにより奈良から農業,水利,鋳物,石工,大工といった様々な技術者
がこの地に移住し、その当時最先端の技術が小田領の産業を発展させた。
それらは居城の小田城を中心としており、当然利益・産物が集中した。
小田城下には、港と先の産業からなる商業地、小田家臣団の屋敷などの建物が建ち並び、
かなりの規模の城下町を形成していたという。
その上に、更に立地的な利が加わる。
小田の地は、海があり,山があり,平野がある。
米が採れるのは勿論,米が不作だろうと、海の幸,山の幸,港に来る船からの特産品と
いうように、いくらでも代わりがあって物が豊かであった。
海は内湾形状の為、外海よりも荒れる事が少なく舟を出せる日は外海より多い。また当時『鰐魚』、
つまりサメが捕れたという資料があり、塩分濃度も十分だった。
筑波山を挟んで北は雪が降ると根雪になるが、南の小田側は晴れれば溶けてしまい、冬が厳しくなかった。
これらのことから、小田へ行くことを『小田へ上る』と云われたという。
…とのことで、小田の地のスペックが高かったから、周辺勢力も小田城を重要視したということ。
また、氏治様があれだけへ負け続けても滅亡しなかったのは、こうした経済基盤があったことも理由の一つだろう。
871 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 10:41:03 ID:12cbe6vc
…これは>869のことの与太話です。
先のスペックを持ったという割に、以降の佐竹は大して旧小田領に入れ込んだ様子が無いように見える。
と思いきや、茨城内、特に佐竹家の研究家内で話されているこんな論があるという。
『関ヶ原後、もしも秋田に転封される事が無ければ、佐竹の居城を小田に移す計画があったのではないか?』
というものだ。
小田城を得た佐竹は、梶原政景や佐竹一族の小場義成などを城主に据えており、佐竹の本拠になどしていないが、
これは先の寺社の件や、領民の事でごたついた状況を収拾させる為で、基盤を作らせる目的で置いたのだという。
関ヶ原前の不穏な状況で、無闇に居城を移す訳に行かず、結局転封で水泡に帰してしまった。
この転封がチェックメイトとなり、旧小田領は以前の繁栄を取り戻すことは二度となかった、という次第。
T氏からは『論』としか聞いていないので、裏付ける資料とかは不明。
872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 10:41:43 ID:43KRfXwM
>>869
なるほど、小田の人々にとってみれば佐竹とかに支配されると小田の富を佐竹の本拠など他地域に
奪っていくだけで地元には還元されないだろう、との読みもあって氏治様贔屓だったのかも、とも思えますね。
879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 15:07:56 ID:WpVQgK5w
>>869
北畠親房も船で小田城に行ったのかも
883 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 18:59:16 ID:12cbe6vc
>879
そうらしいです。T氏との話で出たと思います。
昼間の間は浅瀬の岩場か、海草が生えるような所で顔だけ出して夜を待ち、夜間のみ舟を漕ぐ
…というのを繰り返して小田城に辿りついたとか。
後で、昔の小田城のイメージ図(小田休憩所にあったもの)をうpするので、
小田城と海が隣接していたというのを見てみて下さい。
『こだわる理由~小田の可能性~』
氏治様が小田城にこだわっていたのはご存知の通り。
しかし、佐竹等もこの地にこだわっていた。だから何度も争奪戦が繰り広げられたのだ。
統治も面倒ならいっそ放っておけば良かったものを。
氏治様がこだわるのは『先祖代々の土地ゆえに』でも通るが、他の方々は一体どんな理由からだったのか?
その理由は、実のところ当時の小田領のスペックは異常で、『常陸の中心』,
『小田を征する者が常陸を征する』という考えが、恐らく存在したからだという。
…現在の小田を見ると、『これで中心とか?地元贔屓バロスw』と思ってしまいそうだが、
戦国期よりもっと以前の資料から以下の事が分かっているという。
今でこそ淡水である霞ヶ浦だが、ほんの昔までは海水の入る海であり、『香取の海』と呼ばれていたという。
しかも、霞ヶ浦は太古の広さから少しずつ規模が縮小されて今の姿となっており、1300年頃
は小田城のすぐ横まで水が来ていた。
その霞ヶ浦の『海辺』へ、小田氏四代時知と極楽寺の忍性が協力し、何十という箇所に港を作った。
この港には、鎌倉をはじめ全国から船の往来があり、この地に居ながら全国の特産物等が手に入ったという。
これに加え、忍性の手引きにより奈良から農業,水利,鋳物,石工,大工といった様々な技術者
がこの地に移住し、その当時最先端の技術が小田領の産業を発展させた。
それらは居城の小田城を中心としており、当然利益・産物が集中した。
小田城下には、港と先の産業からなる商業地、小田家臣団の屋敷などの建物が建ち並び、
かなりの規模の城下町を形成していたという。
その上に、更に立地的な利が加わる。
小田の地は、海があり,山があり,平野がある。
米が採れるのは勿論,米が不作だろうと、海の幸,山の幸,港に来る船からの特産品と
いうように、いくらでも代わりがあって物が豊かであった。
海は内湾形状の為、外海よりも荒れる事が少なく舟を出せる日は外海より多い。また当時『鰐魚』、
つまりサメが捕れたという資料があり、塩分濃度も十分だった。
筑波山を挟んで北は雪が降ると根雪になるが、南の小田側は晴れれば溶けてしまい、冬が厳しくなかった。
これらのことから、小田へ行くことを『小田へ上る』と云われたという。
…とのことで、小田の地のスペックが高かったから、周辺勢力も小田城を重要視したということ。
また、氏治様があれだけへ負け続けても滅亡しなかったのは、こうした経済基盤があったことも理由の一つだろう。
871 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 10:41:03 ID:12cbe6vc
…これは>869のことの与太話です。
先のスペックを持ったという割に、以降の佐竹は大して旧小田領に入れ込んだ様子が無いように見える。
と思いきや、茨城内、特に佐竹家の研究家内で話されているこんな論があるという。
『関ヶ原後、もしも秋田に転封される事が無ければ、佐竹の居城を小田に移す計画があったのではないか?』
というものだ。
小田城を得た佐竹は、梶原政景や佐竹一族の小場義成などを城主に据えており、佐竹の本拠になどしていないが、
これは先の寺社の件や、領民の事でごたついた状況を収拾させる為で、基盤を作らせる目的で置いたのだという。
関ヶ原前の不穏な状況で、無闇に居城を移す訳に行かず、結局転封で水泡に帰してしまった。
この転封がチェックメイトとなり、旧小田領は以前の繁栄を取り戻すことは二度となかった、という次第。
T氏からは『論』としか聞いていないので、裏付ける資料とかは不明。
872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 10:41:43 ID:43KRfXwM
>>869
なるほど、小田の人々にとってみれば佐竹とかに支配されると小田の富を佐竹の本拠など他地域に
奪っていくだけで地元には還元されないだろう、との読みもあって氏治様贔屓だったのかも、とも思えますね。
879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 15:07:56 ID:WpVQgK5w
>>869
北畠親房も船で小田城に行ったのかも
883 名前:長永[sage] 投稿日:2010/10/20(水) 18:59:16 ID:12cbe6vc
>879
そうらしいです。T氏との話で出たと思います。
昼間の間は浅瀬の岩場か、海草が生えるような所で顔だけ出して夜を待ち、夜間のみ舟を漕ぐ
…というのを繰り返して小田城に辿りついたとか。
後で、昔の小田城のイメージ図(小田休憩所にあったもの)をうpするので、
小田城と海が隣接していたというのを見てみて下さい。
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コメント
名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -
あんなとこまで霞ヶ浦が広がってたとなると
鹿島は水没・もしくは島になってそうだが
そういえば鹿島神宮は駅から高いとこにあるな
( 2010年10月21日 00:40 )
人間七七四年 | URL | -
鹿島ってくらいの地名だから、小島だった可能性もあるね
( 2010年10月21日 01:31 )
人間七七四年 | URL | -
当時(戦国末期)は鹿嶋は陸続きだよ。
ただ本文にあるように北浦と霞ヶ浦どころか印旛沼まで繋がった香取海が広がっていたけど。
当時の常陸国は今の利根川沿いは香取海と湿地帯が広がっていて、
那珂湊の北部にも内海(真崎浦)が広がっていた。
佐竹本領の常陸太田周辺は山がせり出しているし、
多賀谷領は毛野川(鬼怒川)や小貝川に挟まれた湿地帯(騰波江など)により耕作は不可能。
府中(石岡)周辺も香取海(霞ヶ浦)により、
沼だか水田だかわからない状態。
まじめな話、小田領は肥沃だった。
( 2010年10月21日 02:41 )
人間七七四年 | URL | -
そもそも利根川が東へ流れたのが江戸初期以降だしね。
( 2010年10月21日 02:41 )
人間七七四年 | URL | LmMdU2V.
佐竹が小田城に本拠地移そうとしていたというのはわかりますね。
茨城北部は南と対照的に山がちで平地が意外と少ない。広い盆地もない。
土地も那珂川・久慈川下流域以外はあまり豊かじゃない。なにしろコンニャクや蕎麦で有名になるところだし。
港はあるけれど天然の良港ってほどでもない。外海にもろ面しているし。
逆に佐竹の後に入った水戸徳川家が、なぜ25万石しかもらえなかったかはちょっと不思議。
そりゃ近場にあまり大きな大名を置いてはたとえ親藩でも防衛上問題はあるんだけどさ、あまりに尾張・紀州と差があり過ぎ。
その後修史事業は始めるわ、新田開発はかどらないのに36万石なんて見栄張るわ、運河工事に失敗するわ、そもそも在府だから江戸常勤が多くてただでも金かかるわで、どんどん赤字がふくれあがるし。
( 2010年10月21日 03:00 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
これだけの経済基盤がありながら負けまくった氏治って・・・
( 2010年10月21日 04:28 )
人間七七四年 | URL | -
やはり天庵様は稀代の迷将にあらせられるww
( 2010年10月21日 09:09 )
三 | URL | -
ちなみにその小田氏にも負け続けた大掾氏の本拠府中城が佐竹氏に止めを刺されるまで無事だったのは小田城と似たような事情による。
佐竹義昭が隠居城とし、子を大掾氏の養子にしていた時期もあった。
戦国期までなら常陸の人口で一番多いのは小田(つくば市小田)、次に府中(石岡市府中)だったろう。
鎌倉時代以降、小田に居を構えた小田氏は守護だったから権力が集まってる都市だった。
府中も常陸国国府があった場所。平将門に焼かれたとはいえ、朝廷の中心地でここを押さえた大掾氏は所領を失いながらも戦国末期まで生き延びられたのは都市基盤が優れていたからだね。
( 2010年10月21日 12:08 )
長永 | URL | VX3per56
>8
さらに小田の隣の北条には、平沢官衙遺跡もあります。
そうして、それらは皆小田領であった訳だから、勢力基盤は非常に高いはずだったんですけどね…。
しかも、その領を一時失っても、ちゃんとその年貢が納められるという話だから、そりゃなかなか滅亡しない訳です。
( 2010年10月21日 23:37 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
なるほどなー
いや、脳内で勝手に構成されてたビジュアルイメージ大分変わったわ。
天庵様の小田城争奪戦って、なんかこうド田舎の田んぼと山しかないようなとこで
ポツンとある平城を取ったの取られたのチマチマチマチマやってるイメージだったんだ。
こういうの知ると全然印象変わる
( 2010年10月22日 00:15 )
人間七七四年 | URL | -
俺もこれ読んでイメージ変わったよ。
今まではずっと片田舎のショボイ城の取り合いしてるイメージしかなかったけど、
あれってさり気に重要な戦だったのかもしれないね。
( 2010年10月24日 22:29 )
人間七七四年 | URL | -
そういや、霞ヶ浦が海だったってのは、消防だか厨房だかの時社会の授業で聞いた記憶がある。
読んでてあれが海だって?とか思った瞬間に唐突に思い出したよ。
( 2010年10月25日 19:20 )
名無しの日本人 | URL | -
何度も作り替えた挙句、海が遠くなって遂に放置された
ヒッサルリクの丘思い出した。
( 2014年10月12日 13:04 )
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