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『小田軍師行方刑部』

2010年10月25日 00:00

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 08:42:09 ID:N03Z6p9z
『小田軍師行方刑部』
小田家臣・行方刑部少輔貞久は小田家の軍師であった。
彼は若くして才を持ち、小田軍が敗戦する度に氏治へ策を与えるなどして、
決定的な大敗になる事を防いでいた。
その為、氏治は彼に絶大な信頼を置いていた。
1573年、小田城最後の落城後、氏治は土浦城にて篭城していた。
その篭城で敵を待ち構える最中、行方刑部は急病を患って急死してしまった。享年29才。
この死に氏治はひどく悲しみ、城内の士気も下がった。
人々は、もし彼がもっと生きていてくれたなら、再び小田城は奪還できたろうし、
小田家が潰えることもなかったろうと囁き合った。


以上。補足等はまとめへ。




19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 12:47:42 ID:eW9Tw/hr
>小田軍が敗戦する度に氏治へ策を与えるなどして、決定的な大敗になる事を防いでいた。

敗北は防げないのねw

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 12:49:55 ID:3N1hDFcs
だって小田さんだし。

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 12:57:40 ID:K3F7JhGF
>>19
敗戦後に策を授けるわけだからな。
戦前は献策しても聞き入れてもらえないんだろう

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 15:07:54 ID:G2w6TS6x
なめがた? なめかた?
難読だよね行方氏

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 15:25:04 ID:l82GwbYr
小田軍師行方不明、かと思った

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/24(日) 18:54:24 ID:qUk25e55
>>18
三楽斎「計画通り!」(キラリーン!
と言ってそうな気がする
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コメント

  1. 長永 | URL | VX3per56

    上に書いた通り補足はこちらに書いておきます。

    ■補足
    行方は『なめかた』と読むようです。
    鹿島三十三館の一氏である行方氏は、戦国期には4つの家に分かれており、その中の一家の人物です。

    例の小田休憩所のT氏から聞いた限りは、氏治様が討ち死にせず、何度も小田城を奪還できた影に彼がいたらしいとのことで、土浦逃亡の為の手配や、小田城奪還の時の作戦などに彼が結構関わっていたともいわれているそうです。
    (※T氏からは、そこら辺この人を追いながら調べれば、色々面白い話が見つかるんじゃないか?と言われたものの、現在話らしい話はほとんど見つかっていないです。今度また小田方面に行く際、何か現地の方に話が残されていないか調べようかと思っています)

    ただ、氏治様は彼の言うことはちゃんと聞いたらしい。とかも言われたものの、
    戦の前に氏治様と作戦の相談とかをしていた様子もあって、敗戦に一役買ってしまっているフシもあるのが気になるところです。
    それでも、彼自身は一定の戦果をあげていたようで、十分有能な人だったのには違いないのかと思われます。

    これ以外の事については、また後でこの下に書きます。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    >長永さんへ
    毎回詳しく小田さん家の事を書いて頂き、有難う御座います。
    そんな詳しい方へ、ちょっとお尋ねて見たいのですが。
    幾ら支配年数が長いとは云え、それだけでは領民が慕う理由がちょっと分かり難いのです。何か特別な施しでもされて居たのでしょうか?
    宜しければお答えお願い致します。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    なるほど、投稿主考えたな。無駄に争っても利益は無いからな。
    おっと、俺の書き込みには反応返さんで良いぞ。余計なエサを撒くことになりかねんしな。
    それより、↑の人の質問に答えてやってくれ。俺もそれがぜひ聞きたいんだ。

  4. 三 | URL | -

    行方氏

    小田氏に属した行方氏はかなり古い段階で分かれた傍系かな。

    行方氏は大掾氏系の氏族で、
    小高(行方氏総領家)・玉造・麻生・島崎に分かれた。
    そのうち、現在の潮来市をを領していた島崎氏が台頭、同族の麻生氏を滅ぼして勢力を拡大、島崎氏は佐竹氏に近づいて軍役を担ったりしている。まぁ、南方三十三館暗殺→城攻めで滅ぼされるんだけど。

  5. 三 | URL | -

    戦国時代の関東東北の領民は完全に農民というわけではない。
    戦時には兵を出す武士だった。兵農分離が進んだ近畿の常識は通じなかったりする。小田を占拠しても小田の兵がそこに住んでるんだから仕方が無い。

  6. 長永 | URL | VX3per56

    >2
    結論から言いますと、予想は立てられるのですが、正確なところは分からず終いです。
    施しについては、小田家が特別なことをしたとは聞いておりませんが、極楽寺は行っていたようですので、
    以下に書きます。
    自分も『なぜ領民に慕われたのか』は、一番に明らかにしたかった謎なので、かなり初めにT氏へ質問したのですが、
    『氏治様が慕われた理由』は不明とされ、それでは『小田家が慕われた理由』については?と聞いたところ、
    先に投稿した『こだわる理由~小田の可能性~』と一緒に、代々の当主の話を聞いたり、極楽寺&忍性のことを
    結構掘った部分まで聞いたりした感じです。
    けれど、これらは前知識として知っておく、前提条件の様なものと言う意味で話して下さったのだろうと思います。

    ・・・一応、以下へ現時点で自分が考えているその理由を書きます。初めに断っておきますが、これは完全に
    自分の妄想でしかないものです。

    『氏治様が領民に慕われた理由』
    ありきたりな言い方ですが、これは複数の要素が絡んでいるものと思っています。
    あと、領民=農民のみとは思ってないです。

    ■まず一つ目、この『慕われる』基盤を作ったのは、先の『こだわる理由~小田の可能性~』で書いた
    小田氏四代目の時知と極楽寺の忍性の開発事業によるところが大きいのではないかと思います。
    (見方を変えれば、これが施しに近いものかもしれません)
    各地に港を作り、中央の最新技術を持ってきたことで豊かさをもたらした。これは、1252~62年の10年間の事ですが、
    先の投稿内に書いた『小田に上る』と云われたのは八代孝朝(1336~1414年)の事で、途中大きな戦があるにも関わらず、
    地域は順調に発展したのを物語っています。
    また、忍性(忍性菩薩)という人物は、あまり教育課程で触れられることは無いですが、
    この小田と後に鎌倉の極楽寺にて民衆救済・社会福祉に生涯を捧げた人物であり、死後は後醍醐天皇に菩薩号を
    与えられています。
    先の開発事業は上の考えが時知と一致したことによるものです。なお、社会福祉については極楽寺に病院を設け、
    通常の病人はもちろん、当時差別対象となっていたライ病者の治療にも力をいれており、ライ病者の体を洗い
    薬草で治療する施設もあったといいます。
    こちらは施しについて多少話があり、『病人に限らず貧民にも施しをした』とのことです。

    こうしたことから、両者は領民に称えられ、半ば神格化されて語り継がれていったのではないかと自分は思っています。

    ■二つ目は、宗教団体としての極楽寺の存在です。
    上の基盤がある上に、やはり時代が時代ですので、大寺院群が周囲に与える影響・扇動力は並ではありません。
    領民全員に当てはめるのは横暴かもしれませんが、領民の非常に多くがこの寺院群の宗徒であった可能性は否めません。
    ・・・誤解の無い様に言うと、極楽寺が宗徒や領民へ、小田家を慕う様なor小田家以外を受け入れさせぬ
    という様な扇動を行ったという話は特に聞いていません。
    しかし、小田家とずっと友好関係が続いていたとは聞いており、それを示す石造物などの証拠は存在しています。

    戦国時代のものは、伝承を信じるのであれば、存在していましたが極楽寺の終焉の際に全てが破壊されたということでしょう。
    そもそも考え得るに、普段からの『お寺さんの講話』などで、忍性菩薩の話しかり小田時知の話は、
    定番中の定番であったはずなので、「自分たちの今があるのは小田の殿様と極楽寺のお寺さんのおかげ」
    という意識が普段からそれとなくあったと思います。
    その為、極楽寺が小田家と友好関係・共にあるという事だけで、領民にとって自分たちが小田家を慕うことの
    理由は十分だったのかもしれません。

    ■最後に三つ目、商業団体の存在です。
    具代的な規模は分かりませんが、時知&忍性以降の時代も順調に産業が発展していったのであれば、戦国期の
    小田城下にはかなり大きな商業地が形成されていたはずです。
    そして、港つまり水運も、十分活気付いて大きくなっていたかと思います。
    彼等商売人は、義理人情ばかりで動く訳が無いので、上の2つでは理由にできません。
    港側がそもそも小田家&小田家臣である管谷氏(元は信太氏)が、水運の利権を持っていた時点で小田家に
    なびくしかないのは確定で、陸上の商業地側は、港から入る物が商売に大きく関わる関わる以上、港の意向を
    無視できず、港と極楽寺が小田家に付く時点で、まさか孤立する訳にもいかないので、立場を同じにしたでしょう。
    なお、自分たち佐竹等がどの様に扱うと思った等は、あまりに情報が無くて予想できません。
    小田家の方が自分たちに繁栄をもたらしてくれると判断したんだろうな、くらいに思っておいています。

    以上が自分が予想する、氏治様が領民に慕われた理由です。
    なお、実は長い支配年数自体も一応関係しているのではないかと思われます。
    長く居ればいるだけ、その一族は枝分かれしてその地に深く根付いていきます。
    その内、それこそ農民クラスまで根は張るかもしれません。
    勿論、これらは小田家に限らず古くからの家全部に言える事です。関係はあるはずなので考慮に入れました。

  7. 長永 | URL | VX3per56

    ・・・書いてて気付きましたけれど、極楽寺が裏で小田家に組している時代だったら、
    他家が小田城を占領していても、領民からの年貢を氏治様に渡すのは意外と簡単だったのかもしれません。
    わざわざ領民がこっそり藤沢、ましてや土浦まで届けに行くのは大変ですが、
    徒歩10分程度~のお寺に行くならそこまでの労力でないし、少量ずつで往復しても良い。
    小田家が城を奪還するまでの間、あの広い敷地で預かっておくか、余裕があれば、前山城,宝峰城に
    届けておけば良いだけの話になりますので、結構現実的な話になるのかな?と思いました。

  8. 三 | URL | -

    小田城の占領政策については佐竹視点も考えると面白いよ。

    実は小田の天敵、太田三楽斎・梶原政景、鬼真壁の領地、真壁と片野・柿岡地方は佐竹の本拠地と接地していない飛び地。間には一応佐竹氏に属しているものの時に敵対することもある独立領主江戸氏がいる。

    小田城周辺を完全に制圧するには不十分で、領民を締め上げることができない。ただ、小田城を落としておかないと調子に乗って攻めてくることもあるので落とすわけ。(小田さんだし・・・)

    いくら戦の天才といっても真壁・片野・柿岡の兵力では2000に満たないし、守りに入ると危険だったと思う。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    >2です
    長永さん・三さんお二方ともに、素晴らしいお答えを頂き感謝いたします。
    例え「かもしれないね?」的なお話であったとしても、十分過ぎる回答を頂いたと思って居ます。有難う御座いました。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    >長永さんへ
    しばらくスレへの小田家関係の投稿が無い様子なのですが、もう投稿ネタは終了な感じでしょうか?
    もしそうなら無い物ねだりはしませんが、本スレの動向を気にして投稿を控えているようでしたら、むしろ是非投稿して下さい。週間はもちろん、武将ランキングを見て頂いても、小田家というか小田氏治関係の話の需要は高いことが分かるかと思われます。
    スレの事はインターネットの性質によることでしかありません。長永さんは何も間違ったことをしている訳でもありませんから、どうぞ自信を持って下さい。先のコメントから察するに、私以外にも投稿を待っている人はいると思いますよ。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    将棋のA級棋士に行方という人がいるけど、珍しい名字だし何か関係あるのだろうか。

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