644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 01:15:14 ID:MY7sqxkw
常陸国笠間の城主・笠間大和守心休と猿子(益子・マシコ)城主・猿子某は共に宇
都宮尚綱に仕える同僚同士であった。
それも笠間は家老、猿子は一門と、常陸方面における宇都宮家の大黒柱と言っても
良い二人だったのである。
ところがある時、両家の領民の間で山林争論が起こる。初めは口論だったものが、
徐々にエスカレートし始め、笠間側の領民が猿子側の領民を殺害してしまうという
事態にまで発展する。
これ以来、笠間と猿子は互いに争うようになってしまう。
互いの領内で境を接していたのは富谷城の加藤大隅守(猿子側)と橋本城の谷中玄
蕃允(笠間側)。
加藤は谷中に押されつつ三年の間、何とか持ちこたえていた。
しかし、主君・宇都宮家からは何のアクションもない。配下の者同士が三年間も戦
争を続けているというのに、どちらかを成敗する気配もなければ、和平を仲介する
でもない。まったくのスルーである。
「笠間領民による猿子領民の殺害」が原因で戦となり、「富谷城が笠間軍によって
陥落寸前」であるという現状に対し、宇都宮家の援軍を期待していた猿子は激怒。
一門衆の身でありながら宇都宮家を見限って、結城家と手を結ぶ。
結城家の動きは素早かった。
約束した五千石の領地を受け取ると同時に富谷城へと援軍を派遣する。
猿子軍は加藤大隅守の手勢を囮に笠間軍を誘き出すと、結城軍と共に包囲殲滅、こ
れによって谷中玄蕃允も戦死する事になる。
大敗を喫し、谷中玄蕃允を失った笠間氏は、橋本城に江戸美濃守を派遣する。
谷中の息子・孫八は十八歳と未だ若く、紛争地の最前線を任せる事は出来ない、と
の判断であった。
これを屈辱と受け止めた孫八、江戸美濃守を上回る手柄を立て、皆を見返してやろ
うと心に決める。
孫八の従兄弟(谷中玄蕃允の甥)である安達大膳もこの次第を聞きつけ、笠間心休
の許を辞し、橋本城に入った。
谷中勢の生き残りを集めた孫八と大膳は兵を三つに分け、自らは富谷城近辺にまで
出向。近くの畑で農作業中の少女達を襲い始める。
勿論、富谷城の猿子軍はこれを座視してはいられない。
逃げる孫八&大膳、追う猿子軍。まんまと孫八達は猿子軍を伏兵のど真ん中へと誘
き寄せたのである。
合図と共に二方から一斉に襲い掛かる谷中勢。
猿子軍はこの戦で、勇者と名高い伊達出雲守が孫八に討たれたのを初めとして、青
柳豊後守、青柳肥前守等、主だった将を大勢失ってしまった。
三手に分けた最後の部隊は、その隙に富谷城を突いたが、これは流石に失敗。
富谷城と橋本城の間での睨み合いはその後も変わらなかったと言う。
しかし先年敗北した分は二人の若者の活躍で取り返す事が出来た。
笠間心休はこの働きを大変喜び、橋本城を孫八に任せ、亡父・玄蕃允の名を継がせ
たのであった。
『常陽四戦記』より宇都宮家中骨肉の争い。
んでも益子家って、この事件の前から度々宇都宮家に対して反乱を起こしてる、半
独立領主だったみたいですね。
那須にしろ宇都宮にしろ、この辺りは大変だったんだなぁ。
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 01:38:50 ID:nkwyw5lt
史実では益子と笠間の争いがあったのは天正9年から11年。
せっかく佐竹=宇都宮=結城の三氏同盟を中心に常陸・下野・下総の諸勢力を結集させて
北条の侵略を阻止しようとしたのに、
洞中連合は全く足並みがそろわず、相変わらず仲間割ればっかりで、
厩橋の北条や由良・長尾等の味方を北条に各個撃破されてしまいましたとさ。
646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 02:32:24 ID:rQgo9qW5
>>645
利根川東岸の豪族衆は基本こんな感じだよなぁ。
651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 09:36:41 ID:pEMafOx1
U字工事の益子卓郎の適当な「ごめんねごめんね~~」は先祖譲りか
653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/18(木) 15:37:14 ID:Np2HG5hu
>>639
大関は汚い本当に汚い
654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 16:06:21 ID:q888NI4o
益子の最後の当主って芳賀氏出身だっけ?
あの辺のgdgdぷりはひどいよなあ
655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 16:34:03 ID:FgimBAEK
>>645
隣近所には色々あるんだよね…
関東における北条包囲網はどうにもうまくいかない。
一番うまくいった謙信の小田原城攻めも微妙な結果に終わるし。
656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 18:37:29 ID:FpFA1fe/
>>654
そうだっけ?
逆に益子氏出身で芳賀氏の当主になった人なら知ってるが
常陸国笠間の城主・笠間大和守心休と猿子(益子・マシコ)城主・猿子某は共に宇
都宮尚綱に仕える同僚同士であった。
それも笠間は家老、猿子は一門と、常陸方面における宇都宮家の大黒柱と言っても
良い二人だったのである。
ところがある時、両家の領民の間で山林争論が起こる。初めは口論だったものが、
徐々にエスカレートし始め、笠間側の領民が猿子側の領民を殺害してしまうという
事態にまで発展する。
これ以来、笠間と猿子は互いに争うようになってしまう。
互いの領内で境を接していたのは富谷城の加藤大隅守(猿子側)と橋本城の谷中玄
蕃允(笠間側)。
加藤は谷中に押されつつ三年の間、何とか持ちこたえていた。
しかし、主君・宇都宮家からは何のアクションもない。配下の者同士が三年間も戦
争を続けているというのに、どちらかを成敗する気配もなければ、和平を仲介する
でもない。まったくのスルーである。
「笠間領民による猿子領民の殺害」が原因で戦となり、「富谷城が笠間軍によって
陥落寸前」であるという現状に対し、宇都宮家の援軍を期待していた猿子は激怒。
一門衆の身でありながら宇都宮家を見限って、結城家と手を結ぶ。
結城家の動きは素早かった。
約束した五千石の領地を受け取ると同時に富谷城へと援軍を派遣する。
猿子軍は加藤大隅守の手勢を囮に笠間軍を誘き出すと、結城軍と共に包囲殲滅、こ
れによって谷中玄蕃允も戦死する事になる。
大敗を喫し、谷中玄蕃允を失った笠間氏は、橋本城に江戸美濃守を派遣する。
谷中の息子・孫八は十八歳と未だ若く、紛争地の最前線を任せる事は出来ない、と
の判断であった。
これを屈辱と受け止めた孫八、江戸美濃守を上回る手柄を立て、皆を見返してやろ
うと心に決める。
孫八の従兄弟(谷中玄蕃允の甥)である安達大膳もこの次第を聞きつけ、笠間心休
の許を辞し、橋本城に入った。
谷中勢の生き残りを集めた孫八と大膳は兵を三つに分け、自らは富谷城近辺にまで
出向。近くの畑で農作業中の少女達を襲い始める。
勿論、富谷城の猿子軍はこれを座視してはいられない。
逃げる孫八&大膳、追う猿子軍。まんまと孫八達は猿子軍を伏兵のど真ん中へと誘
き寄せたのである。
合図と共に二方から一斉に襲い掛かる谷中勢。
猿子軍はこの戦で、勇者と名高い伊達出雲守が孫八に討たれたのを初めとして、青
柳豊後守、青柳肥前守等、主だった将を大勢失ってしまった。
三手に分けた最後の部隊は、その隙に富谷城を突いたが、これは流石に失敗。
富谷城と橋本城の間での睨み合いはその後も変わらなかったと言う。
しかし先年敗北した分は二人の若者の活躍で取り返す事が出来た。
笠間心休はこの働きを大変喜び、橋本城を孫八に任せ、亡父・玄蕃允の名を継がせ
たのであった。
『常陽四戦記』より宇都宮家中骨肉の争い。
んでも益子家って、この事件の前から度々宇都宮家に対して反乱を起こしてる、半
独立領主だったみたいですね。
那須にしろ宇都宮にしろ、この辺りは大変だったんだなぁ。
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 01:38:50 ID:nkwyw5lt
史実では益子と笠間の争いがあったのは天正9年から11年。
せっかく佐竹=宇都宮=結城の三氏同盟を中心に常陸・下野・下総の諸勢力を結集させて
北条の侵略を阻止しようとしたのに、
洞中連合は全く足並みがそろわず、相変わらず仲間割ればっかりで、
厩橋の北条や由良・長尾等の味方を北条に各個撃破されてしまいましたとさ。
646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 02:32:24 ID:rQgo9qW5
>>645
利根川東岸の豪族衆は基本こんな感じだよなぁ。
651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 09:36:41 ID:pEMafOx1
U字工事の益子卓郎の適当な「ごめんねごめんね~~」は先祖譲りか
653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/18(木) 15:37:14 ID:Np2HG5hu
>>639
大関は汚い本当に汚い
654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 16:06:21 ID:q888NI4o
益子の最後の当主って芳賀氏出身だっけ?
あの辺のgdgdぷりはひどいよなあ
655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 16:34:03 ID:FgimBAEK
>>645
隣近所には色々あるんだよね…
関東における北条包囲網はどうにもうまくいかない。
一番うまくいった謙信の小田原城攻めも微妙な結果に終わるし。
656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/18(木) 18:37:29 ID:FpFA1fe/
>>654
そうだっけ?
逆に益子氏出身で芳賀氏の当主になった人なら知ってるが
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コメント
人間七七四年 | URL | -
下野の諸勢力のまとまらなさは半端ない
細かくわかればおもしろそうなのだが、あんまりつっこんだいい感じの物がない
( 2010年11月19日 00:03 )
人間七七四年 | URL | -
大関は汚い本当に汚い(褒め言葉です)
( 2010年11月19日 00:04 )
人間七七四年 | URL | -
汚くてごめんねごめんねぇ~
( 2010年11月19日 02:18 )
人間七七四年 | URL | -
芳賀高定はあんなにいい人なのに
( 2010年11月19日 06:24 )
人間七七四年 | URL | -
笠間と益子、今でも仲悪いのかな?
焼き物ではりあってるみたいだしw
( 2010年11月19日 09:51 )
三 | URL | -
下野国勢力
1.宇都宮氏・笠間氏・益子氏(紀氏)・芳賀氏(清原氏)→宇都宮勢力
2.那須氏・大関氏 →那須勢力
3.武茂氏・茂木氏 →佐竹勢力
4.壬生氏
5.小山氏
6.佐野氏
7.日光山勢力
あんまりまとまりがない。
常陸国もそうだけど
逆にこれらの勢力を一時的にも纏め上げられるなんてすごいことと思わないと。
( 2010年11月19日 10:11 )
人間七七四年 | URL | -
※6
8.足利長尾 もあるよ~
まあ、今でも足利地方は言葉も文化も独特で、栃木よりはるかに群馬文化圏だがね。
足利長尾家も下野の諸勢力よりも、由良家はじめ上州の勢力との方がずっと親密だからね。
( 2010年11月19日 10:23 )
人間七七四年 | URL | mQop/nM.
>7さん
自分は足利の隣の太田市の者です。足利は確かに太田金山の直ぐ隣の地域なので、似たり寄ったりの文化は有ります。
ですが、実際足利市の身内と話してみると、かなり言葉の訛りも違うし同じ文化圏の意識をした事は無いですね。
>話しの横道失礼
ただ、食文化は結構同じかも?特に焼き饅頭とかは足利でも普通に食べれまし、焼きそばも盛んです(ただ足利はイモ入りが多い)。
足利学校の近くに行ったら、是非とも「パンじゅう(ぱんじゅ)」を食べる事をお勧めしますよ~。
( 2010年11月19日 15:14 [Edit] )
三 | URL | -
>>7,8
国道50号線を走ってると歴史を感じますねー
上野方面は詳しくないので参考になります。
( 2010年11月19日 17:28 )
人間七七四年 | URL | -
益子氏と笠間氏の領土は入り組んでいて複雑怪奇。
それに加えて宇都宮本家が放置していた(もしくは一族の笠間氏より)ので、
こじれた挙句に益子氏が離反せざるを得ない状況に。
富谷城をめぐる争いは結城氏というより、
結城氏の配下だったはずの水谷氏の独断っぽい。
水谷蟠龍斎が益子氏と共に笠間方の田野城を攻めるんだけど、
何故か攻め手に佐竹家の天庵様担当こと太田三楽斎も加わってる。
もちろん、後で佐竹義重に大目玉をもらうんだけど。
水谷蟠龍斎の方は不明。
というより結城氏配下だった多賀谷家重に喧嘩売ったり、
勝手に独自に宇都宮領に侵攻したりやりたい放題しているので制御不能だったのかも。
>6さん
皆川広照と(小俣)渋川義勝がアップを始めたようです。
( 2010年11月22日 16:34 )
ななし | URL | SFo5/nok
宇都宮が下野統一を狙えた時期
宇都宮も宇都宮成綱の時代なら芳賀益子上三川多功だけでなく壬生・日光山・武茂・松野・塩谷・薬師寺・鹿沼・笠間・君島は宇都宮領になってたし、さらに成綱の外交によって結城や那須と同盟を結び、さらに古河公方の義父であり、婿の高基の擁立に成功。佐竹を2度の合戦で潰したりと輝いていたし統一の見込みもあった。
成綱が肝心な時期に死んだことによってその後は衰退するけどな
忠綱も皆川侵攻とかしたけど結城との関係を悪化させたのが決定的だった
( 2014年01月24日 14:05 [Edit] )
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