869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:08:04 ID:szztXoxH
サイン変えました('A`)
永禄8年、京で将軍足利義輝が三好・松永勢に襲われて落命する。いわゆる「永禄の変」である。
義輝の弟で奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶は、近臣の活躍により奈良を脱出し、伊賀次いで近江へ
逃れ還俗して義秋と名乗る。この一連の動きに尽力したのが、義輝の相婿にあたる朝倉義景である。
その後、若狭から越前へ移った義秋は、義景の加冠で元服、名も義昭と改める。義景は義昭を盛大に
もてなしたが、義昭の悲願である朝倉氏の武力により上洛、そして征夷大将軍へ任官、という構想
には同調しなかった。
朝倉家の当時の状況を見れば無理もない。
外様の有力家臣である堀江景忠が本願寺に通じて謀反を起こし、鎮圧まで義昭は一乗谷へ迎えられず
敦賀に留まったままであった。義昭の斡旋により本願寺とは和睦したものの気を許せる状態ではない。
義景の代になってからは上杉謙信と連合して、それまでより積極的に加賀一向一揆を攻めていたので
ある。
一族内では大野郡司の景鏡(義景の従兄弟)と敦賀郡司の景紀(義景の叔父)が対立していた。両者は
数年前の加賀攻めの折、景紀の息子景?(景みつ)が景鏡と大将争いをして敗れて自害して以来、険悪な関係に
あったが、義昭の敦賀滞留がそれに火を点けてしまった。敦賀滞留の折、義昭は景紀の次男景恒を
中務大輔に任官して重んじたが、景鏡がその後巻き返し、義昭が一乗谷へ移る際にその出迎えを務め、
式部大輔に任官される。一乗谷での饗宴の際、景鏡と景紀は席順を争って、片方が出席すれば、もう
一方は欠席する有様であった。
三好・松永に同調する勢力との差もあり、京都制圧の自信は持てなかった。むしろこのまま駒である
義昭を手中に置いて、周辺勢力との外交交渉に使おうとしたのだろう。越前公方の設立を考えたのかも
知れない。
そうこうするうちに、義景の嫡男阿君丸が死亡する。真相は不明だが京都から毒が調達され毒殺された
ともいい、義昭周辺が下手人との噂も立ったという。
一乗谷滞在9ヶ月にして、義昭は織田信長の元へ去る。義景は反対したが止めることは出来なかった。
「最後まで義景を見捨てない」言い残して義昭は去った。
大事な跡継ぎを喪い、一族の結束は更に乱れ、あまり当てに出来ない本願寺との和議だけが残った。
この直後、義景はおのれの花押を変更している。「足利様」と称される武家様の花押を家督相続後
20年にわたって使用してきたが、全く別の公家様の花押に変えたのである。
「新しい花押に変えたのでよろしく願いたい」
薩摩島津氏に宛てた書状で義景はわざわざこう断りを入れている。義景の心境や如何に…
870 名前:869[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:09:28 ID:szztXoxH
文字化けした('A`)
「景?」は「景みつ」ね
orz
871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 18:32:09 ID:nilzV520
薩摩の島津に書状なんて送ってるんだね。
内容はなんだろ
872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 19:22:56 ID:olN5UzYT
義景「いちどあそびにきてください。」
874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 21:30:29 ID:AfsV1lOK
>>872
酷えw
鉄砲の取引なんじゃない?
875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 11:58:06 ID:SH1J2ONJ
>>874
朝倉の琉球貿易に島津が協力してくれる事に感謝する内容の書状
の事じゃないか?
義景「今度俺、信長倒したら、薩摩にあそびにいくんだ」
義久「…と言う書状が届いて以降返事がありません、この間何故か信長に日向鷹をかつあげされました」
876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 12:29:52 ID:eM2psqAH
>>875
信長「はくだみにした杯やるから日向鷹くれよ」
サイン変えました('A`)
永禄8年、京で将軍足利義輝が三好・松永勢に襲われて落命する。いわゆる「永禄の変」である。
義輝の弟で奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶は、近臣の活躍により奈良を脱出し、伊賀次いで近江へ
逃れ還俗して義秋と名乗る。この一連の動きに尽力したのが、義輝の相婿にあたる朝倉義景である。
その後、若狭から越前へ移った義秋は、義景の加冠で元服、名も義昭と改める。義景は義昭を盛大に
もてなしたが、義昭の悲願である朝倉氏の武力により上洛、そして征夷大将軍へ任官、という構想
には同調しなかった。
朝倉家の当時の状況を見れば無理もない。
外様の有力家臣である堀江景忠が本願寺に通じて謀反を起こし、鎮圧まで義昭は一乗谷へ迎えられず
敦賀に留まったままであった。義昭の斡旋により本願寺とは和睦したものの気を許せる状態ではない。
義景の代になってからは上杉謙信と連合して、それまでより積極的に加賀一向一揆を攻めていたので
ある。
一族内では大野郡司の景鏡(義景の従兄弟)と敦賀郡司の景紀(義景の叔父)が対立していた。両者は
数年前の加賀攻めの折、景紀の息子景?(景みつ)が景鏡と大将争いをして敗れて自害して以来、険悪な関係に
あったが、義昭の敦賀滞留がそれに火を点けてしまった。敦賀滞留の折、義昭は景紀の次男景恒を
中務大輔に任官して重んじたが、景鏡がその後巻き返し、義昭が一乗谷へ移る際にその出迎えを務め、
式部大輔に任官される。一乗谷での饗宴の際、景鏡と景紀は席順を争って、片方が出席すれば、もう
一方は欠席する有様であった。
三好・松永に同調する勢力との差もあり、京都制圧の自信は持てなかった。むしろこのまま駒である
義昭を手中に置いて、周辺勢力との外交交渉に使おうとしたのだろう。越前公方の設立を考えたのかも
知れない。
そうこうするうちに、義景の嫡男阿君丸が死亡する。真相は不明だが京都から毒が調達され毒殺された
ともいい、義昭周辺が下手人との噂も立ったという。
一乗谷滞在9ヶ月にして、義昭は織田信長の元へ去る。義景は反対したが止めることは出来なかった。
「最後まで義景を見捨てない」言い残して義昭は去った。
大事な跡継ぎを喪い、一族の結束は更に乱れ、あまり当てに出来ない本願寺との和議だけが残った。
この直後、義景はおのれの花押を変更している。「足利様」と称される武家様の花押を家督相続後
20年にわたって使用してきたが、全く別の公家様の花押に変えたのである。
「新しい花押に変えたのでよろしく願いたい」
薩摩島津氏に宛てた書状で義景はわざわざこう断りを入れている。義景の心境や如何に…
870 名前:869[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:09:28 ID:szztXoxH
文字化けした('A`)
「景?」は「景みつ」ね
orz
871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 18:32:09 ID:nilzV520
薩摩の島津に書状なんて送ってるんだね。
内容はなんだろ
872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 19:22:56 ID:olN5UzYT
義景「いちどあそびにきてください。」
874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 21:30:29 ID:AfsV1lOK
>>872
酷えw
鉄砲の取引なんじゃない?
875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 11:58:06 ID:SH1J2ONJ
>>874
朝倉の琉球貿易に島津が協力してくれる事に感謝する内容の書状
の事じゃないか?
義景「今度俺、信長倒したら、薩摩にあそびにいくんだ」
義久「…と言う書状が届いて以降返事がありません、この間何故か信長に日向鷹をかつあげされました」
876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 12:29:52 ID:eM2psqAH
>>875
信長「はくだみにした杯やるから日向鷹くれよ」
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コメント
人間七七四年 | URL | -
島津と朝倉、どこで交流が生まれたんだろう?
佐竹家の一族が武者修行で、島津家の川田義朗の元で修行してたりするから、意外な繋がりがあってもおかしくないんだろうが。
( 2010年12月05日 00:26 )
※1 | URL | -
>1
意訳してもうた・・・。
川田義朗の元で修行じゃなく、川田義朗に教授してるが正解でしたわ。
( 2010年12月05日 00:49 )
人間七七四年 | URL | IY7bLZJE
>義景「いちどあそびにきてください。」
「m9(^Д^)プギャー 来られるもんなら来てみやがれ田舎モンw」にしか見えない・・・
( 2010年12月05日 01:02 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
越前島津氏のつながりで薩摩とも縁があったのかな?
ちなみに越前家は悪いほうの家久ならぬ地味なほうの義弘を排出している
( 2010年12月05日 06:39 )
人間七七四年 | URL | -
>3
家久「遊びに行きましたけど義景君ち焼け野原になってたので
元部下の光秀君と白湯して帰りましたけど何か?」
( 2010年12月05日 10:42 )
人間七七四年 | URL | -
島津氏は鎌倉時代初頭に北条(名越)朝時の後見として島津忠久が越前国守護を任されたので、
それなりに繋がりがあったのでは?
( 2010年12月05日 21:23 )
人間七七四年 | URL | -
越前島津は、始祖が越前名乗りだっただけ。
それ以降の関係はない。
ただし、薩摩藩士に「景」字を持つ朝倉氏がいる。
由来は、謎。
( 2010年12月06日 00:32 )
人間七七四年 | URL | -
島津への文書は鉄砲の取引に関するものだよ。
あと義景は結構広範囲で文通してる。
秋田県や千葉県で地元の大名に当てた手紙が発見されている。
>ただし、薩摩藩士に「景」字を持つ朝倉氏がいる。
>由来は、謎。
ひょっとして西国に没落したという景高の子孫??
( 2010年12月06日 16:35 )
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