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後藤家信と加藤清正

2011年02月28日 00:00

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 00:38:25.99 ID:ZFtXCcQe
ちょっと悪い話に後藤家信の話を書いちゃったのでこっちにも家信のお話を

後藤家信は、文禄の役のとき鍋島直茂に従って渡航して、加藤清正とともに戦った。
慶長の役のときもまた渡航して、兄の家種を失いながらもまた戦った。
このとき蔚山籠城中の加藤清正を救出する際に武功を立てて、
清正が手を取って、「吾死を千百に免れ首頸を全うすることを得たるは一に吾子の賜なり」と謝辞を述べ、
太刀一振り大砲三十丁を贈ったそうな。

後藤家信はその後病気を患って、早めに朝鮮から引き上げるんだけど、
加藤清正とはそれ以来交友を持って、何度か清正が武雄を訪ねて来てるらしい。
清正が没した時は、家信はその死を悼んで清正寺を建立して、
その清正寺は、今でも武雄市若木町に残っている。
そんな武将同士の交友関係の、ちょっといい話




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    なるほど確かにこういう逸話みると関羽を思い出すな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    大砲はいわゆる大口径の火繩銃なんだろうけど、
    三十丁とは大判振る舞い。


    運搬に困るくらいに。

  3. 人間七七四年 | URL | vEmrOf96

    清正の勧めで親父の回向寺も建立しているね、家信。その名も「隆信寺」。

  4. 人間七七四年 | URL | qn8GZFVI

    たしか清正が訪ねてくるとき、虚無僧かなんかの滑降して御忍びだったこともあったとか。

  5. 人間七七四年 | URL | vEmrOf96

    虚無僧が顔を隠せる天蓋を被るようになったのは江戸後期のこと。菅笠を被るのも江戸中期以降というから、あんまり信用出来ない話だね>虚無僧姿でお忍び説

  6. 化け猫 | URL | -

    ※2殿
    私は良いと思います。

  7. 人間七七四年 | URL | wYAyu/Y2

    >※5
    虚無僧は間者の定番お忍びスタイルだよ。
    顔を隠すって言うよりも、他の地方人として紛れ込んでも違和感ない的な意味で。
    顔なんて一般人には誰だか分からんしな。

  8. 人間七七四年 | URL | qn8GZFVI

    昨年に武雄であった戦国の展示で、隆信寺の写真に「キケン」の看板が写り込んでいたのを思い出した。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※8
    「熊出没注意」ということかな?(すっとぼけ)

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