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伊達と相馬、累代の敵国

2011年03月20日 00:00

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:49:23.69 ID:IVblgCDc
慶長5年(1600)6月のこと、上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ

「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1~3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:54:27.99 ID:IVblgCDc
が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。


そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。


さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。


さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)





413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 13:14:18.64 ID:Zf/4Cio3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1697.html

こっちの話より生々しいなw

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 14:06:43.99 ID:eQy7oi6G
それはそれ、これはこれ って感じかなw

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 18:23:52.04 ID:aRvmxkqN
この頑固っぷりはいかにも坂東武者の流れを汲む関東武士らしいなw
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    NKHさん
    是非とも再来年、相馬家をよろしくお願いします。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    あ、NKHってなんだよ

  3. 人間七七四年 | URL | LmMdU2V.

    野暮な突っ込みだけど常陸の佐竹も相当政宗にやられているのだからすんなり通させてくれるのかと疑問がw

  4. 人間七七四年 | URL | -

    佐竹は逆に伊達からの使者歓待してたような。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    佐竹は建前は徳川側って言ってた上に徳川に近いから情報漏れるのが怖かったんじゃね

  6. 人間七七四年 | URL | -

    相馬と佐竹は西軍のくせに、
    なーんにもしてないのな。

    相馬が堪えてる間に、
    佐竹が江戸乱入とかしてればry

  7. 人間七七四年 | URL | -

    相馬家の逸話ってまだほとんど無いよな

    盛胤とか探してみるかな

  8. 人間七七四年 | URL | -

    >今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります
    利胤もマイナー名君だと思ってたけど、こう言う意固地な部分もあったのですね。
    ここで了承しておけば、少なくても両家の良い話なのにw

  9. 人間七七四年 | URL | -

    佐竹は義重が東軍、義宣が西軍とねじれていたので、戦後取り潰されなかったけど秋田へ転封。
    生き残り策と言うより三成に恩義を感じていた義宣が義重の言うこと聞かなかったからのようだけど。

    でも佐竹と伊達って江戸時代にはそんなに仲悪いって印象はないんだよな、伊達と浅野とか相馬とかみたいに。
    幕末だけど佐竹と宇和島伊達家が縁組しているし。

  10. 名無しさゃん | URL | -

    水谷さんの言い分には、ちゃんと現実的な見方もあったんだな。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    常は敵国同士だけど窮地の時は手を結んで乗り越えようとするなんて
    いかにも戦国の東北っぽくて生々しくも面白いじゃないか

  12. 三楽斎 | URL | -

    相馬といえば・・・

    今回の地震で被災された南相馬市の被災者が提携先の取手市に避難されました。この取手市、かつての「北相馬郡」。相馬氏とはゆかりのある土地です。また仙台藩伊達氏の飛び地(龍ヶ崎市)もすぐ近くにあったりします。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    >1
    残念ながら再来年は南部信直…だったらいいな

  14. 人間七七四年 | URL | -

    >>6
    隠居中の父親&老臣が「徳川に参加する」と言って、義宣自身は「三成に恩がある」と言って徳川に反発。東軍と西軍で家が割れ、どっち付かずの状態に。
    東家の佐竹義久は義重の命令で江戸城に行き、義宣の命令で景勝に援軍を派遣。
    こんな分裂状態で家中が纏まる訳もなく。
    一応家康に「本領安堵」を求めたらしいが、面会をしていた佐竹義久は急死。
    江戸近くに大名家(しかも50~60万石クラス)が居るのは完全にアウト。という家康の意向で、戦後処理が終了した2年後、秋田に転封。
    確かざっと流れを説明するとこんな感じだったかな?
    まぁ佐竹が軍を動かさない様ちゃんと江戸にも兵を置き、義重との関係を良くしていた家康には死角がなかった訳で。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    伊達が相馬の弁護をしたというのは
    ぶっちゃけ後世の伊達びいきが作った話なんだけど
    まーくんならそれもありかなと思わせるところがミソだな。

    ちなみに家康は寝返り工作として佐竹義宣に
    正室と離婚して自分の養女と婚姻するよう持ちかけたが
    断られている。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    めっちゃすがすがしくていい話だな

  17. 人間七七四年 | URL | -

    そうか、佐竹と伊達は

    伊達政宗はしょーもない人で
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3645.html

    によれば、親戚としての付き合いはずっとしているのね。

    同じ血縁でも、隣接する相馬は迷惑を常に受けていたので、江戸時代も敵対関係だけど、佐竹は直接対決もそんなに多くないからそこまで関係は悪化しなかった、ってことかな。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    不倶戴天の仇敵でも頼ってきたなら受け入れ、しかしながらそれはそれとして敵としての容は無くさない。
    名門武家らしい堂々とした矜持が見れて心地いい。

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