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会津の稲荷社別当、喜楽坊

2011年04月13日 00:00

天海   
633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/12(火) 11:48:54.50 ID:LaKUvIAJ
天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗した、当時未だ13歳の蘆名義広の身を、
その側に付き従い守ったのは、会津黒川の稲荷社別当、喜楽坊という僧侶であった。
彼は義広の侍女たちにまで刀脇差を差させ、自分は薙刀を持って厳重に警護をし、
蘆名義広を佐竹領まで無事、退かせた。

やがて豊臣秀吉の東北仕置が終わると、蘆名義広は常陸江戸崎に4万5千石を与えられた。
この頃喜楽坊は名を変え、不動院と名乗っていた。

さてそんなある時、蘆名家の家臣、家田八右衛門という者が義広に反逆、
義広の乳母を人質にして立てこもる、という事件があった。

この時喜楽坊改め不動院は家田に

「侍たるもの、人質に女人を取るというのは不覚なことである。私が代わりに人質になるので、
彼女を開放しなさい。」

と説得。家田もこれに応じ、乳母と不動院を交換した。

と、ここで、

乳母の帰ってきた事を知った蘆名義広は直ぐ様、家田八右衛門を攻めかけた。
不動院がいるのに。
この時家田は討ち取られ、不動院は運良く無事であった。が、流石にこれに怒った不動院は
寺を明け江戸崎から退転しようとした。しかし他の僧侶達がこれを説得し、達て不動院を滞留させた。

この不動院、後の東叡山南光坊。すなわち天海僧正である。




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    何かしら助ける手立てがあっての突入じゃ無く、普通に乗り込んだので?
    そりゃ怒るわな。命の恩人に対する態度じゃないわ。

  2. 人間七七四年 | URL | xtc7akX2

    天海が出自不明で実は明智光秀だったってよく語られるけど
    ちゃんと史料があるならガセだったんだね。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    *2
    本能寺の変は天正10年ですよ

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