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佐竹の秋田転封と南方三十三館

2011年05月03日 00:00

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 18:32:36.45 ID:Refvpm/f
慶長7年(1602)5月8日、伏見城に召された佐竹義宣は、幕府によりその領地常陸の公収と、
出羽秋田への国替えを命ぜられた。

同日、幕府は常陸へも御使を送り、義宣の父である佐竹義重を始め、佐竹家中一同に
その旨を伝えた。

これを受け入れた佐竹義宣に家臣団は大いに反発、重臣、群馬(車)丹波守は面と向かって
彼を諌めた

「我が国の軍兵、4,5万はございます!その上兵糧は、10年は耐えられるほど備蓄があります!
なのにどうして、抗戦すること無く幕府の命に従い、出羽に下ろうとされるのですか!?」

これに義宣

「現在、日本六十余州の中に徳川殿に従わぬものは一人も居ない。我が国の勢をもって
天下の敵となるというのはどう考えても現実的ではない。

それ以前の問題として、我々のために滅ぼされた南方三十三館の残党がまだ国内に多く有る。
彼らがこの時とばかり、主君の仇を報じようと国中で蜂起すればどうなる?
天下の軍への対応どころではない。
そのような混乱の中雑兵の手に懸る様な事態になれば、無念この上ない。

今はただ、兎にも角にも我が家が絶えないようにすることこそ重要なのだ。」

と、同年6月14日、先祖伝来の地を去り秋田へと入ったのだという。
(藩翰譜)


南方三十三館仕置の問題が、佐竹の秋田転封にも影響を与えていた。と言うお話。




983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/02(月) 20:23:26.13 ID:nq/zLnX9
まだ幕府は出来てないよ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 20:32:06.10 ID:Refvpm/f
すまん。便宜上幕府としたが「徳川公儀」とでも脳内変換してくれ。
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コメント

  1. | URL | xtc7akX2

    堀之内大台城の悲劇(現代)

    南方三十三館の事件が現代にまで尾を引いていたという話。

    行方氏の流れを汲む島崎氏は佐竹氏に協力的で、度重なる軍役にも兵を出していたが、結局は滅ぼされた。それを恨みに思う人々は多かったらしい。

    島崎城が廃城となった後、小貫頼久がその地に入り、堀之内大台城という土作りの城が築かれた。秋田移封後廃城となってもその遺跡は残り、研究者をして中世城郭の傑作と言わしめていたのだが、当時の牛堀町長はこの城を徹底して破壊。跡地に中学校を建設した。

    今は牛堀中学校の前の石碑でしのぶしかない。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    米1
    単なる歴史に無理解な首長としか思えない。

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