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丹羽家解体顛末

2011年05月04日 00:00

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 04:30:38.90 ID:UfUYSQxM

丹羽長秀が腹の中にできた腫瘍に怒り、自身で腹を斬りその腫瘍を取り出して死んだ、
という話は有名である。この死の前、羽柴秀吉は長秀に対し自筆の書状にて、「子息に
本領を安堵すること相違あるべからず」と固く誓っていた、という。

さて、長秀の跡を継いだのは若干15歳の丹羽長重であった。
秀吉は小牧長久手の際、徳川家康・織田信雄方に味方した越中の佐々成政に対処するため
丹羽家の軍勢を早速動員した。が、その所領安堵のことについては何の言葉もなかった。

この頃丹羽家でも最も力のある重臣は、成田弥八郎であった。

成田は家中の者たちを集め、語った

「それにしても我々の故主(長秀)は、織田殿の御恩が非常に深い方であられた。
それが秀吉という無道人にたぶらかされて、織田家の天下が奪われてしまったのは、
一生の不覚と言うべき事である。

その上大恩ある織田家の公達をすら殺そうという人間(秀吉)がどうして、かつて織田家の
同僚であったというよしみを気にかけ、まだ幼い我らが主君に大国を数多く任せよう、などと
考えるだろうか?

得難きは時、失い易きは勢という。

今にも滅びようとしている我が丹羽家だが、未だ勢が散り失せていない今のうちに、秀吉が
越中に入る頃を見計らって、織田殿の御為義兵を挙げ、佐々と挟み撃ちにしてこれを滅ぼし、
故主の恥を雪ぐ事こそ、いかなる仏事、供養にも勝ることであると考える。
方々はどう思われるか!?」

これに丹羽家中の人々は驚き、「以の外の大きな議題である」と様々な意見が出て、
なかなか意見がまとまらず時間ばかり過ぎた。
そうしているうちにこの事が秀吉の耳に達する。これは丹羽家家臣である長束正家、戸田重政が
秀吉に密かに知らせたのだ、とも言われる。

秀吉の行動は早く、たちまち成田弥八郎を捕らえ死刑に処した。そして佐々成政が降伏すると、
今度は丹羽家の主な家臣、長束大蔵大輔(正家)、村上周防守(義明)、溝口伯耆守(秀勝)、
青木修理亮(宗勝)、青木民部少輔(一重)、寺西下野守(清行)、上田佐太郎(重安)、
奥山雅楽助(正之)、といった人々を全て自分の直臣として召し上げ、その上で丹羽長秀の所領であった
越前、加賀を没収。

「本領であることには相違無い」

と、『織田時代』の所領であった近江国内の三郡を、長重に与えた。


秀吉による丹羽家解体の顛末である。




989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 06:06:06.26 ID:HYKZxb++
秀忠さんお気に入りなんだよなぁ~
でも、パーフェクト超人に比べると地味すぎるけどな~

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 07:34:09.46 ID:ZVDFfcse
>>988
秀吉は約束を反故にしたか
もしかしたら秀吉より家康の方が先に亡くなってたら関八州も取り上げられたかもしれんな

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 08:56:02.74 ID:fzqDC46e
>>988
成田もあながち間違っちゃないんかもしれんが
もっと信頼できる人と話しあってからにすればいいのに

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 09:12:43.24 ID:JhgpqIZ5
厳しいこというと、家臣の一部が反乱を企てたとしてそれを主人として抑えることができなかった以上
「大封に要地を任せておくことはできない」という判断も非難できないんだよなあ
丹羽家が主導でこの企てを潰していたらまた秀吉の対応も変わったかもしれないけど

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 10:26:05.97 ID:B3b/p1db
まあ、長重も鬼吉川みたいに、秀吉の命を受けたクロカンに毒鮭
食わされなかっただけ、ましだと思うがね。
命あってのものだねだよ。

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 10:53:43.30 ID:qWh7RT0N
まぁ、秀吉からすれば長秀に恩はあっても、息子の方には何にもないしね。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 11:05:36.34 ID:yZiUMPKa
長秀が北条降伏後まで生きていたら関東入りしてたかなあ

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 11:54:42.02 ID:fFHCHO72
長束・戸田「計画通り」

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 12:16:07.61 ID:v+ulFDbP
ラスボスは親や親、子は子って割り切るよね
丹羽さんの件も蒲生工場長の時も

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/03(火) 12:25:00.01 ID:YbX/+Jn7
>>988
浅井が朝倉攻め途中の織田を後方から攻撃した話とかぶるね
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    ラスボスが特別ではなく主従関係が完全に個人の関係だったんだろうね
    この頃までが

  2. 人間七七四年 | URL | -

    臣:ふふふ、私は代々○○家に仕える者だ…。

    主君:お、おい!絶体絶命のピンチだ。助けろ!!

    臣:では、私は次代の主君に仕えるでござる!おさらばっ!!

  3. 人間七七四年 | URL | -

    そもそも一族が少ない秀吉が、外様に大封預けるかな?
    この件が無くても、何時か何かしらの因縁付けて領地を削ったと思うけどな?
    ただ、逸話自体は面白かったです。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    >>993
    時々勘違いしてる奴いるけど、“鬼吉川”って元春じゃなくて
     吉 川 経 基 のことだからな

  5. 名無しさん@ニュース2ちゃん | URL | -

    こんなことしているから、余計に味方がいなくなってしまったような気が…

  6. 人間七七四年 | URL | -

    何だかんだで長重は浅井畷で活躍するし、丹羽家は中堅クラスで生き残るんだから、皮肉なもんだな

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >>997
    そうして自分の子供の時は割り切られてしまったとさ。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    関ヶ原でも親は親、子は子ってことで別々の領地貰ってる家もあるもんな

  9. 人間七七四年 | URL | -

    長重もサバサバしていて、のちに十万石になった恩があるから、といって関ヶ原の時に石田方についたからな

  10. 人間七七四年 | URL | -

    >石田に付いた
    これって本当に「石田三成」と言って良いのでしょうか?
    大将は輝元・副将は秀家としていた筈ですよね?でも、関ヶ原で実質大将各
    として参陣したから、石田と徳川と言う図式が出来ただけでは?

    長重にしてみれ、徳川より織田家時代から付き合いのある豊臣家に付いたと言う
    感覚なのでは?他の西軍諸将にして見たって豊臣側と言う意識が強かったのでは?

  11. 人間七七四年 | URL | -

    秀吉自身も信長相手には忠誠心あったぽいんだよな。
    織田家相手にはほとんどなかっただけで。
    家という物を軽視していたのかもしれない。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    隠居が早かったり嫡男の領地が広かったりってのはそういうことなのかな
    自分の死で瓦解しないよう次代当主と家臣との間にしっかりと関係築かせる、的な

  13. 人間七七四年 | URL | -

    >10

    長重がどういう意識だったかは判らんが、大半の諸侯は「石田vs家康」だったと思われる。
    じゃなきゃ市松が家康に味方せんだろ

  14. 人間七七四年 | URL | -

    >13
    >市松が味方
    たったそれだけの判断なの?何かしらの資料を元にしたで無く?

    なら西軍に最初から付いていた武将は何なのです?
    西軍諸将の中には、止む無く西軍へ付かざるを得なかった人も居ますよ?
    徳川で無く、豊臣に恩が有ると感じて参加した武将も居ますよ?

    東軍(特に関ヶ原へ従軍した武将)の殆どが、時勢が徳川にありと感じて付
    いた武将。だが、確かに仰る通り石田(と言うか奉行衆)に怨みがあるから
    と参加したのも居るが、それは昨日今日の怨みじゃ無い。
    後は鮭様の様に豊臣に遺恨が有る連中。
    また、西軍が完全に大阪を把握(秀頼を味方に)出来なかったからです。
    切欠が石田の呼びかけはあったとしても、理由は人其々ですよ。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    >14

    ああ、何が気になったか大体わかった。公式には西軍の一武将に過ぎないのに石田方、と書いたのが気になったのね。

    まあそりゃあそうだけど、例えば戦後の報酬約した書簡はほとんど三成の手が入っている訳で(秀家と連名だったり奉行衆連名だったり三成単独だったり)とにかく西軍の首脳だったことは間違いないでしょ。

    で、東軍についた豊臣系武将(浅野、池田、福島、細川など)はなべてみな「石田憎し」で徳川に馳走した訳で(清正は小西憎しだったかも、地味加藤はよう判らん)、彼ら的には豊臣に弓引いたっていう意識はどうだろ?なかったんじゃね?

    明白に「家康に天下取らせる」と意識して動いたのは長政と高虎くらいかなー?と。
    なんか脱線したなw

  16. MsK | URL | -

    >長秀が北条降伏後まで生きていたら関東入りしてたかなあ
    してなかったと思います。
    どっちかというと、石高い興味のない人ですから、海運や海外貿易に都合のいい若狭に居座って、適当にやっていたと思います。Ms

  17. 人間七七四年 | URL | OLHiJ7es

    親に恩はあるが子にはない主義を取っていたなら
    秀頼が裏切られまくっても何の文句も言えないよな

  18. 人間七七四年 | URL | -

    実際何の文句も言ってないだろ(そもそも言える状況にいないが)何得意気に高圧的にほざいてんだよアンチ豊臣の馬鹿はw
    馬鹿なんじゃねぇの(笑)

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