71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:04:39.47 ID:Hv78qrdd
見る角度でいい話にも見え悪い話にも見えるようなお話。
小出三尹(みつまさ、もしくは、みつただ)と言えば和泉陶器1万石の小さな大名だが、その母は秀吉の母、
大政所の妹であり、豊臣秀吉の従兄弟であって豊臣家に最も近しい血縁の者であった。
そんな小出三尹も大阪の陣では徳川方として働き、慶長20年(1615)5月7日、ついに大阪落城の日を迎えた。
大阪城は炎上し、諸大名は続々と家康の陣を訪ね、祝いの言葉を述べた。
さて、そんな賞賛攻めの中、家康は諸侯の中に小出三尹の姿を見つけた。そしてこの小大名に、
家康の方から声をかけた
「あれをどう思うか?」
今なお炎上している大阪城の方を指して言う。
小出三尹はその方を一瞥しただけで、こう答えた
「こんな情けない事はありません。」
(かかるうたてき御事こそ候はね)
この言葉にその場は凍りついた。諸大名は「なんと不可解なことを言い出すのか!?」
「どのような疑いを持たれても仕方のない言葉ではないか!」と驚き思った。
が、家康はこれを聞くと
「…汝は故太閤の所縁であったな。
豊臣家とは非常に近しい者だ。そんな汝がそのように思うのは、道理というものだ。」
と、感動した面持ちで言った。
当然のことながら、その場にはたくさんの、豊臣恩顧の大名たちが居た。
彼らも我先にと、豊臣家が滅びたことへの祝いを述べていたのだ。
そんな中の小出の発言に、彼らは非常に恥ずかしい思いをしたのだという。
そして家康は、そんな旧主家の滅亡を祝う人々に囲まれている中、小出の言葉に救われた思いだったようだ。
彼は後にも重臣たちに
「大隅守(小出三尹)が言ったことは、神妙の至というものだ。」
そう、あの時のことを思い出して語ったと言う
(藩翰譜)
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:32:11.19 ID:1DZnSr9I
でも加増はしない安心の家康クオリティ
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 21:19:40.48 ID:pydC9nfn
そして翌日からは執拗な豊臣家の残党狩り、豊臣家の痕跡を地上から徹底的に消す作業を始めるのが家康クオリティ
74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 21:26:22.98 ID:KqRTV0VH
それもまた仕方ないね千姫との間に嫡男がいれば家名は残ったかもしれないが
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:27:40.31 ID:HMCI4E2m
政治は政治として人情の自然な発露は大切にする家康 あああやっぱりめんどくせぇ
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:50:38.52 ID:uynqD8mu
それめんどくさいか?
77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:56:08.28 ID:4w+ddfVk
全然たぬき親爺してないねw
78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 00:16:35.81 ID:mZNtN90s
「豊臣家滅亡の日と信孝の命日が同じなのは、秀吉が旧主である織田家をないがしろにしたせい」
と旧主である豊臣家を滅ぼした直後に近習に語っちゃうお茶目な家康(『坂役叢話』より)
言ってることとやってることが違いすぎるんだよね
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 00:33:17.25 ID:63gkkJk4
どうせ後世の創作だろ
残党狩りくらい戦国武将なら誰でもやってる
81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:21:52.11 ID:Qp/mPuqf
>>78
豊臣家が徳川家の主家って訳じゃないのに
82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:23:33.45 ID:pzgbJH76
後藤又兵衛の息子や家臣を細川家が
匿っていたのを知っていて、知らぬふりとかも。
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:27:08.57 ID:mZNtN90s
>>81
えっ?
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:27:51.92 ID:iz42pG+B
>>81
家康が折れて上洛した時点で主かにするのを認めたんでねーの
87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 02:20:25.32 ID:63gkkJk4
まあ信長-秀吉みたいに一から引き立ててもらった立場と
秀吉-家康みたいに巨大勢力が臣従してきた関係では
そりゃ自然と期待される行動は違うわな
91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 11:29:19.17 ID:oUUM7OrL
明確に部下じゃなくなったのって将軍職に就いたあたりでいいのかな?
それとも大阪の陣?
92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 11:31:36.44 ID:CWGiIk4L
>>91
慶長十六年(1611)3月28日の二条城会見。あれははっきりした秀頼による
家康への臣従儀式。
95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:14:24.62 ID:oUUM7OrL
>>92サンクス
だから福島達があんなに警戒したのか
見る角度でいい話にも見え悪い話にも見えるようなお話。
小出三尹(みつまさ、もしくは、みつただ)と言えば和泉陶器1万石の小さな大名だが、その母は秀吉の母、
大政所の妹であり、豊臣秀吉の従兄弟であって豊臣家に最も近しい血縁の者であった。
そんな小出三尹も大阪の陣では徳川方として働き、慶長20年(1615)5月7日、ついに大阪落城の日を迎えた。
大阪城は炎上し、諸大名は続々と家康の陣を訪ね、祝いの言葉を述べた。
さて、そんな賞賛攻めの中、家康は諸侯の中に小出三尹の姿を見つけた。そしてこの小大名に、
家康の方から声をかけた
「あれをどう思うか?」
今なお炎上している大阪城の方を指して言う。
小出三尹はその方を一瞥しただけで、こう答えた
「こんな情けない事はありません。」
(かかるうたてき御事こそ候はね)
この言葉にその場は凍りついた。諸大名は「なんと不可解なことを言い出すのか!?」
「どのような疑いを持たれても仕方のない言葉ではないか!」と驚き思った。
が、家康はこれを聞くと
「…汝は故太閤の所縁であったな。
豊臣家とは非常に近しい者だ。そんな汝がそのように思うのは、道理というものだ。」
と、感動した面持ちで言った。
当然のことながら、その場にはたくさんの、豊臣恩顧の大名たちが居た。
彼らも我先にと、豊臣家が滅びたことへの祝いを述べていたのだ。
そんな中の小出の発言に、彼らは非常に恥ずかしい思いをしたのだという。
そして家康は、そんな旧主家の滅亡を祝う人々に囲まれている中、小出の言葉に救われた思いだったようだ。
彼は後にも重臣たちに
「大隅守(小出三尹)が言ったことは、神妙の至というものだ。」
そう、あの時のことを思い出して語ったと言う
(藩翰譜)
72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:32:11.19 ID:1DZnSr9I
でも加増はしない安心の家康クオリティ
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 21:19:40.48 ID:pydC9nfn
そして翌日からは執拗な豊臣家の残党狩り、豊臣家の痕跡を地上から徹底的に消す作業を始めるのが家康クオリティ
74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 21:26:22.98 ID:KqRTV0VH
それもまた仕方ないね千姫との間に嫡男がいれば家名は残ったかもしれないが
75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:27:40.31 ID:HMCI4E2m
政治は政治として人情の自然な発露は大切にする家康 あああやっぱりめんどくせぇ
76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:50:38.52 ID:uynqD8mu
それめんどくさいか?
77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 23:56:08.28 ID:4w+ddfVk
全然たぬき親爺してないねw
78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 00:16:35.81 ID:mZNtN90s
「豊臣家滅亡の日と信孝の命日が同じなのは、秀吉が旧主である織田家をないがしろにしたせい」
と旧主である豊臣家を滅ぼした直後に近習に語っちゃうお茶目な家康(『坂役叢話』より)
言ってることとやってることが違いすぎるんだよね
80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 00:33:17.25 ID:63gkkJk4
どうせ後世の創作だろ
残党狩りくらい戦国武将なら誰でもやってる
81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:21:52.11 ID:Qp/mPuqf
>>78
豊臣家が徳川家の主家って訳じゃないのに
82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:23:33.45 ID:pzgbJH76
後藤又兵衛の息子や家臣を細川家が
匿っていたのを知っていて、知らぬふりとかも。
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:27:08.57 ID:mZNtN90s
>>81
えっ?
84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:27:51.92 ID:iz42pG+B
>>81
家康が折れて上洛した時点で主かにするのを認めたんでねーの
87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 02:20:25.32 ID:63gkkJk4
まあ信長-秀吉みたいに一から引き立ててもらった立場と
秀吉-家康みたいに巨大勢力が臣従してきた関係では
そりゃ自然と期待される行動は違うわな
91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 11:29:19.17 ID:oUUM7OrL
明確に部下じゃなくなったのって将軍職に就いたあたりでいいのかな?
それとも大阪の陣?
92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 11:31:36.44 ID:CWGiIk4L
>>91
慶長十六年(1611)3月28日の二条城会見。あれははっきりした秀頼による
家康への臣従儀式。
95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:14:24.62 ID:oUUM7OrL
>>92サンクス
だから福島達があんなに警戒したのか
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コメント
人間七七四年 | URL | -
>>75
自分は旧主家を思う発言に感動した家康のいい話だととったが、
めんどくささは別に感じなかったがな
( 2011年05月08日 00:12 )
人間七七四年 | URL | 0Q3WCu86
戦国大名にとっちゃ、明日は我が身だったろうしなあ。
家康は、今川武田北条と看取ってきてるわけで‥‥‥。
( 2011年05月08日 00:13 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
この場合の「うたてし」は「情けない」じゃなくて「辛い」か「気の毒」じゃね?
( 2011年05月08日 01:06 )
人間七七四年 | URL | -
>>73
関ヶ原後に甘い顔してやってたら忘れた頃に大坂の陣ヒャッハーされたんだから仕方ないんじゃねぇの?
秀頼が素直に大人しくしてれば三法師程度の扱いにはしといてくれてただろうしな、それでなくても公家として生きる道も残されてたわけだし
それ以上を望むのはさすがに通らんだろ、秀吉がやってきたこと的な意味で
( 2011年05月08日 01:10 )
人間七七四年 | URL | -
秀頼・淀は時勢を見る目を持って無かったのでしょう。
秀吉は織田家から天下を奪った様な物なのに、自分達はされないと
思って居たのだろうか?
( 2011年05月08日 14:59 )
人間七七四年 | URL | -
幕府側がその都度その都度妥協案出してやってたのに全て反故にしたのは豊臣側だからなぁ
昔の権威に縋って自滅した豊臣家と、新しい権力にすり寄る諸侯の中でのこの発言
家康も思うところがあったんだろう
( 2011年05月08日 16:14 )
人間七七四年 | URL | -
そうだね。
最初は確か、秀頼を滅ぼす意志までは無かったんでしょ?、家康だって。
だけどその後いろいろとあった。
だからこの話は、一見矛盾をはらんでいるようにも見えるかもしれないが、
家康は政治家としての気持ちの他にもう一つ、
「(そうはいっても、)お主はそう思うだろうなあ…。」というような、
人としていろいろな思いが錯綜している感じがする。
人生のままならなさ、奥深さを感じるなあ。
( 2011年05月08日 16:40 )
人間七七四年 | URL | -
ある意味、家康は良い意味でも悪い意味でも長生きしてしまった。
戦国時代からの生き残りとして、
純粋に寂しかったんじゃないかな、この時は。
( 2011年05月08日 19:15 )
人間七七四年 | URL | -
普通に良い話だよな
豊臣恩顧の人たちから、責められても仕方のないことをしている自覚はあっても
今や家康に何か言える人もいない現状で、言ってもらえたこの一言が
色んな意味で見にしみたと思うよ
じんわりと来るいい話
( 2011年05月08日 19:30 )
人間七七四年 | URL | -
家康の場合、直接ズバズバ言う家臣が居たからこういう意見があるとほっとするんじゃないのかな
( 2011年05月08日 20:43 )
人間七七四年 | URL | -
このスレ見てると、多少家康贔屓になるよねw
家康の人格者としての逸話と、ラスボスの権力者とはかくありき的な逸話が山ほど出てくるから
( 2011年05月08日 23:10 )
人間七七四年 | URL | -
※11
それと「全ては家康の計画通りだった」と思われてた出来事が
実際にはそうではなく家康にとっても一か八かの大博打ばかりだった、
という逸話や説が増えてきたから良い意味で人間臭さが出て来たのかも
( 2011年05月09日 01:25 )
人間七七四年 | URL | -
こういうのとか、増田の子供とか、
家康としても難しいところだと思う。
利己での観点で、ね。
だって、こういう奴がもしも絶滅したら、
いまは勝ち組の自分の味方してくれてる連中も、
「自分の子孫の時はわかんねーなぁ」
って話だからね。
( 2011年05月09日 04:06 )
人間七七四年 | URL | -
豊臣の残党狩りと言っても、秀吉の妻には敬意を払ってるんだよな。
( 2011年05月09日 06:30 )
人間七七四年 | URL | -
>14
好みだったのでは?wと勘ぐりたくなるww
でも、家康が女性を極端に無下に扱うって話は無いですよね?
(秀康母の扱いは微妙だけど)
まぁ流石に豊臣恩顧の大名対策でもあるのでしょうね。
織田時代から世話になった奴多いだろうし。
( 2011年05月09日 08:37 )
人間七七四年 | URL | -
家康も好んでじゃなくても朝日姫の夫ってことで豊臣縁者になってて、
小出の義従兄弟だったんだよな。
( 2014年01月19日 15:14 )
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