143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:46:07.00 ID:1EOL3Cdz
白井河原の合戦 和田惟政の最後(1)
フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟政、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟政と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟政が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。
144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:48:45.41 ID:1EOL3Cdz
困った和田惟政、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟政のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟政に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」
両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟政、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。
善戦するも、和田惟政、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟政の首を上げたのであった。
信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後
146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:00:34.65 ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?
147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:07:27.06 ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・
148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 20:55:16.21 ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀
149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 21:10:23.02 ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html
さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。
黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。
白井河原の合戦 和田惟政の最後(1)
フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟政、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟政と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟政が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。
144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:48:45.41 ID:1EOL3Cdz
困った和田惟政、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟政のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟政に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」
両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟政、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。
善戦するも、和田惟政、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟政の首を上げたのであった。
信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後
146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:00:34.65 ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?
147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:07:27.06 ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・
148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 20:55:16.21 ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀
149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 21:10:23.02 ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html
さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。
黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
信野望だと忍者扱いの和田さんw
この時期の摂津は、個人的に良く状況が分からないんですよね。
信長に摂津を任されている同士がいがみ合い、池田は当主追放・和田攻めして
いるのに、結局その当事者達は摂津を収めている。有能だから許したと言う事
ですかね?
( 2011年05月14日 03:16 )
人間七七四年 | URL | -
茨木市史でいろいろ書いてた気がする
その中の1つに義昭と信長の代理戦争説があったはず
今手元にないから確認できないけど
( 2011年05月14日 08:22 )
人間七七四年 | URL | -
絶対南蛮鎧がなかったというのは立証できないけどな
史料上で確実なのが天正後期からというだけで
( 2011年05月14日 22:19 )
人間七七四年 | URL | wZ.hFnaU
※3
史料上確実なのは天正ではなく「慶長」後期ですな。
( 2011年05月14日 22:41 [Edit] )
人間七七四年 | URL | pK5Rx0BI
個人的に和田さんの最後はアサシン清秀説を信じたい
( 2011年05月15日 09:24 [Edit] )
名無しのアレ | URL | -
※4
いや、天正だよ。
1588年。
( 2011年09月05日 00:08 )
梟 | URL | -
南蛮鎧といっても、いろいろある。当世具足だって、ある意味では南蛮鎧みたいなものだしな。別にバチガチの直輸入フルプレートばかりが南蛮鎧ではあるまいて。
( 2012年07月11日 19:12 )
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