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堀尾忠晴15歳、大阪冬の陣で諸先輩を唸らせる

2011年05月18日 00:02

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:01:30.81 ID:VuWajU97
では堀尾さんところの、いい話なんだろうけど、なんというかw

慶長19年(1614)、大阪冬の陣。
11月29日、大阪の水口方面にて佐竹義宣の軍は後藤又兵衛・木村重成率いる大阪勢と激戦となる。
両軍に多くの死傷者を出し、大阪方は「後藤・木村を討たせてはならない!」とさらに千四・五百の
軍勢を繰り出す。
これを察した義宣は待ち受け向かい討たんと自ら長刀を手にし堤の影に軍勢を隠し敵の到来を待つ。
その時の佐竹義宣の姿は虎が風に毛を振るい、獅子が獲物を喰らわんと歯噛みするようであった、と伝えられる。
敵が、来た。今や掛からん!と、その時である

並びの陣に控えていた、当時若干15歳の堀尾山城守(忠晴)勢が突然、横から大阪勢に斬り込んできたのだ!
堀尾勢は大阪の新勢を散々に切り乱す。
さらに上杉景勝勢が堀越に押し寄せ鉄砲を激しく打ちかけたため大阪勢はたまらず、城内へと引き返した。
この時大阪勢は、三千人余りが討ち死にしたという。

さて、この結果に佐竹義宣は激怒した。
自分が待ち構えていた敵を横から奪われたのだ、それも当然であろう。義宣は堀尾忠晴に使者を立て抗議した

『城の内から敵をあぶり出し討とうという作戦であったのに、あなたが横合いから勝手に槍を入れられたため
敵を再び城内に追い込んでしまった!あなたは軍法に背くおつもりか!?
あなたは未だ15歳であり、若気の至りということもあるでしょう。であれば1度だけは許してあげましょう。
が、重ねて此の様な振る舞いは、一切御無用でござる!』

堀尾忠晴はこれを聞くと直ぐに、その使者に佐竹義宣への返事を託した。それに曰く

『あなたの仰せは尤もです。ご存知のように私は此の様な若輩であり、軍法のことも詳しくは存じておりません。
ただし目の前に敵を見れば、いつ何時であってもそれへの攻撃を我慢するということが出来ません。
なので今後も私は、粗忽なことをしてしまうでしょう。どうかその度に、お許しいただけるようお頼みします。』

この言葉に義宣は絶句し
「頼みきっていた家の子郎党たちを数多く敵に討たせながら、その敵を人の手柄にさせてしまい、
損の上に損をしてしまった!」
と嘆いたという。

さて翌日。堀尾忠晴は将軍秀忠の御前へと伺候し、前日の手柄を賞された。
と、この時軍奉行である安藤次右衛門(正次)が進みでて、荒々しく言い放った

「山城守殿(忠晴)の昨日の働きですが、手柄はたしかにその通りですが、佐竹軍がわざと誘いだした敵を
横から入り討ったのは軍法を破っており、狼藉であると考えます。佐竹殿も大変不本意に思っておられることでしょう。

山城守殿、あなたは未だ御若年なので今回は見逃しましょう。
ですが、重ねて此の様な粗忽なことをされれば過失として軍法に照らし罰を与えねばなりませんぞ!」

この安藤の強い言葉に、忠晴はニッコリと笑って

「仰せのように私は若輩ですから、軍法も詳しく理解しておりません。…ですが昔から、源平の合戦や
元弘建武の乱に置いても、目の前に進む敵を『これは誰々の受け持ちだから』などと言って
討たないで見過ごすという法があったでしょうか?珍しいことを承るものです。

私は手近に敵が居れば、いつでも粗忽な合戦をするでしょう。そしてその度に、その事についてのご容赦を求めるでしょう。」

と、爽やかに言い放った。これにその場に居た人々

「天晴、山城守はなんと器量骨柄が優れているのだろう。若年の今ですらこうなのだから、
将来は一体どのような人物に育つのか」
と、感嘆したという。

若輩の堀尾忠晴、大阪冬の陣で多くの諸先輩を唸らせる、と言うお話(大阪物語)




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:09:35.43 ID:DfQ0Ba89
息子があれだった中村さんや生駒騒動の生駒さんのところと違って
堀尾忠晴は不肖の子孫じゃなくて有能だったのに、家が絶えたのは残念

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/17(火) 00:44:21.70 ID:cXlo0ZrX
これだけ大勢の大名が参加した戦だったから、
先陣だとか、後だとか、むきになるだろうなあ・・
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    当面の「最後の合戦」だしね。
    ましてや佐竹は「どっちかってーと西軍」みたいなレッテル払拭しないとヤバイ時期だし。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    そこまで戦況みえてるなら
    後ろから撃たれることもなさそうなんだが

  3. 人間七七四年 | URL | -

    まぁ、佐竹はこの時、ほぼ総崩れ状態だったとも言われてるしなぁ
    連戦中で倍の敵を破って疲労困憊状態のハズの上杉軍に助けられなかったら義宣もやばかったとかって言われてるくらいだし

  4. 人間七七四年 | URL | -

    端から見れば、押し込まれてるのか誘い出してるのかわからないよなぁ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ラストでそんな気骨見せて疎まれなかったのだろうか

    けどその気骨が広島城受け取りに繋がるのかもしれないな

  6. 人間七七四年 | URL | -

    現代においてもMMORPGでよくある事。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    忠晴「先を取る、の重み……我が父の、自城を内府殿に献上する一番手柄を、どこぞの成り上がりに横からかすめ取られた苦い経験があってこそ」

  8. お肉名無しさん | URL | -

    土佐国と出雲国ではどっちが高評価かは・・・
    22万石も再検地の結果だし。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    こんな甘えが通るの?
    この坊ちゃんの言い草は大名が連合して戦うような場じゃ通らないだろ
    ご容赦願おうがきっちりこの勘違い君を処罰して死んだ佐竹の士卒に報いてやんなきゃ誰も死んでくれなくし、勘違い君も後々誰も馬並べて貰えなくなるし、処罰した方が本人のためじゃん?

  10. 人間七七四年 | URL | -

    まぁ、そうなんだけどねぇ
    米3の通り、佐竹軍は総崩れ寸前だったとも言われてるんだよね
    この時、前線指揮官で義宣の右腕たる、渋江政光が死んでるんだわ
    おそらく大混乱状態だったと思う

  11. 人間七七四年 | URL | -

    人数からして佐竹軍は上杉なんかと比べると少なかった上に
    上杉は幕府側からの助力もあったんじゃなかったっけ?
    佐竹は逆に、出陣するタイミングすら軍監に謀られている。
    徳川側の武将から「佐竹など全滅しても構うものか」と思われるくらい
    憎まれていたんだと思う。
    もっとも大御所は違ったみたいだけどね。

  12. 人間七七四年 | URL | -

    佐竹義宣は景勝には救援要請出してるから、上杉に助けられるのはともかく若造は手を出してくんな!って言いたいだけじゃね?
    そもそも佐竹隊のいた今福と上杉(堀尾)隊のいた鴫野は川を挟んで対岸だから佐竹が知らないうちに勝手に堀尾が突っ込んだって話自体作り話なんだろうけど

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