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2011年07月26日 23:05

松仙院   
866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/26(火) 20:20:51.03 ID:Mc/6qgJL


真田信吉の正室は夫の死後、落飾して松仙院と号し、実家の酒井家に戻っていた
彼女の目に側室の子と実家の甥が高齢の義父と争っている光景はどう写ったのであろう
松仙院は死後、彼女の母の眠る曹渓寺(麻布)に葬られた
松仙院が生前に建立した真田信之の供養塔もその姿を残している


この供養塔、松代藩歴代藩主が祀られた長国寺の信之の墓(本墓ではない)と大きさが大差ない立派なもの
信之次女見樹院の建立説もありますが





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コメント

  1. 名無し | URL | SFo5/nok

    この騒動が元で、沼田藩は改易され、沼田真田氏を再興した真田勘解由家の人物が不祥事を起こしてしまい、勘解由家も連座改易となっている。
    信之が推した幸道に、跡継ぎがなく、甥を養子にしたものの、その孫の代で信之男系が断絶し、松代藩真田氏は紆余曲折を経て、伊達氏の物となる。

  2. 人間七七四年 | URL | SFo5/nok

    ちょっと気になったけど、信吉と信利は庶子なのに、嫡男信政正室実家より各上の大名から、正室を迎えることが出来たのだろうか?
    案外、信吉は信之の実子ではないかもしれない。その場合、熊之介は信之に殺されたのだろうか?

  3. 人間七七四年 | URL | FF3H9HIM

    ※2
    信吉と信利が治めていた沼田真田は松代真田とは別に
    半ば独立した大名として見られていたから格の高い大名から室を迎えられたと思う。
    あと真田人気も大きいかと。

  4. 人間七七四年 | URL | a2H6GHBU

    ↓の人へ。
    沼田が独立大名領だったのは、関ヶ原前までの話で、その後信之が、上田藩を相続すると、内分藩格下げになったはず。
    大名が正室を迎える際、幕府が石高や家格に応じて婚姻を許可するものだし、世間で幕府が名家贔屓と言われるから、成り上がりの真田は、評価されていないよ。
    松代藩も、五代目だったかが、前田家から正室を迎えたけど、その正室は分家の出の側室腹の姫だったのに対し、信利は山内本家の正室腹の姫を、正室にしている。
    こういう待遇差を、根拠とした場合、信吉は信之の子供ではなかったと思う。

  5. 人間七七四年 | URL | SFo5/nok

    下の続き

    自分がそう考えたのは、昌幸の赦免実現のために、何故信之は秀忠隠し子の幸松の存在を利用しなかったか?何だよね。
    幕府が真田を優遇した説も、明治維新で徳川は朝敵になったため、朝敵の汚名を注ぎたい徳川が、徳川の敵=朝廷受けすると考えて、後から歴史書を書き換えたが、本当のところじゃないかな。

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