445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 08:06:01.31 ID:2is70TG2
もう一人の「酒井忠勝」
酒井忠勝と言えば、江戸時代初期に幕府の大老を務めた若狭小浜藩主が有名だが、
同時代にもう一人「酒井忠勝」がいた。
酒井家次の長男、つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり、酒井家の直系であるその人物は、
秀忠から一字を拝領して忠勝と名乗った。
とりあえず、有名な方の「忠勝」はこの話には出てこないので、ここでは忠勝で通す
元和八(1622)年、最上義俊が改易されると、酒井忠勝は庄内への転封を命ぜられた。
幕府は山形城に鳥居忠政を配置し、その周縁を忠政の縁戚で固める方針をとった。忠勝は忠政の娘婿であった。
幕閣に説得されて庄内に移った忠勝は、鶴ヶ岡城(現鶴岡市)を本拠地として、最上氏の事業も引き継いで
様々な政策を実施した。
しかし、大きな失策も犯してしまう。
寛永三(1626)年、領内で凶作が起き、さらに寛永七(1630)年にも不作が起きたのだが、年貢を
減免しなかったのである。
庄内藩では定免法を実施していたため、租率が変わらなかったのだ。
寛永九(1632)年、生活に苦しんだ遊佐郷・荒瀬郷の農民が秋田領の由利・仙北に逃散。
藩はこれをそれぞれの大肝入の責任として、高橋太郎左衛門と池田刑部左衛門を牢に入れた。
幕府の巡検使が来る前年だったこともあり、藩としては大肝入の二人を殺して「問題なんてなかった」に
するつもりだったという。
結局、釈放された二人だったが、殺されそうになったことを知った太郎左衛門は大いに憤った。
寛永十一(1634)年十一月、太郎左衛門は弟とともに江戸に行き、幕府に直訴。
十三条からなるその訴状は、知恵伊豆こと松平伊豆守によって受理された。
その結果、何と太郎左衛門と刑部左衛門は肝入に復職。
さらに太郎左衛門は後に二百石の家中に召しだされるという、異例の待遇であった。
庄内藩もおとがめなしということで、知恵伊豆の配慮により、ひとまず事件は穏便(?)に済んだのであった。
446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 08:08:42.92 ID:2is70TG2
…が、忠勝のトラブルはまだ続く。
忠勝の弟、長門守忠重が御家乗っ取りを画策したのである。
この忠重、白岩領(現寒河江市など)の領主だったのだが、これまた苛政を布いていた。
で、案の定百姓一揆が起きて、領地没収。没収後は、庄内藩の客分として暮らしていた。
客分とは言え藩主の弟である。忠重は権力を握り、遂には家老をもしのぐほどとなった。
そして忠重は「忠勝の子を廃し、自分の子を忠勝の長女に娶らせて二代目藩主の地位に就ける」という
野望を抱くのである。
忠勝・忠重の弟である了次(玄蕃)は、忠重の讒言により後に幽閉され死亡。
忠重と対立した家老の高力喜兵衛一方は、讒言を受けた忠勝の命により追放。一族縁者も多くが追放・切腹などの処分。
この忠勝に讒言した人物は喜兵衛の同志であったが、忠重に脅迫されたらしい。
同じく家老の水野内蔵助重次は追手を差し向けられたが、寺院に潜伏して命は助かった。
かくして、ライバルたちを消した忠重は野望成就へとあと一歩まで近づいた。
しかし、喜兵衛一族を追い落とした翌年の正保四(1647)年。忠勝が病死したのである。
遺言により、忠勝の子である忠当が継いだため、ここに忠重の野望は頓挫。
忠重は忠当から義絶され、後に息女縁組の不始末により改易。改易の翌年、隠棲先で何者かに
殺害されるのであった。
農民に訴えられたり(忠勝にも原因あるけど)、弟に家督狙われたりと、
そんな波乱の人生を送った、もう一人の「酒井忠勝」の話。
ちなみに、参考にした本によると、忠勝は短期だったらしく、手打ちにした人数三百人余り。
その内、自ら手にかけたのは 一 二 〇 人 から 一 四 〇 人 と伝えられてるそうな。
447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 09:00:16.68 ID:p1JMQgO9
忠勝3人目がいるなw
448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 09:14:28.17 ID:XmSH+2r3
>>446
>その内、自ら手にかけたのは
>一 二 〇 人 から 一 四 〇 人>と伝えられてるそうな。
今すぐ長可に改名しろwww
449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 14:50:20.99 ID:8opW1zNp
これまた胸糞悪い話だな。
もう一人の「酒井忠勝」
酒井忠勝と言えば、江戸時代初期に幕府の大老を務めた若狭小浜藩主が有名だが、
同時代にもう一人「酒井忠勝」がいた。
酒井家次の長男、つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり、酒井家の直系であるその人物は、
秀忠から一字を拝領して忠勝と名乗った。
とりあえず、有名な方の「忠勝」はこの話には出てこないので、ここでは忠勝で通す
元和八(1622)年、最上義俊が改易されると、酒井忠勝は庄内への転封を命ぜられた。
幕府は山形城に鳥居忠政を配置し、その周縁を忠政の縁戚で固める方針をとった。忠勝は忠政の娘婿であった。
幕閣に説得されて庄内に移った忠勝は、鶴ヶ岡城(現鶴岡市)を本拠地として、最上氏の事業も引き継いで
様々な政策を実施した。
しかし、大きな失策も犯してしまう。
寛永三(1626)年、領内で凶作が起き、さらに寛永七(1630)年にも不作が起きたのだが、年貢を
減免しなかったのである。
庄内藩では定免法を実施していたため、租率が変わらなかったのだ。
寛永九(1632)年、生活に苦しんだ遊佐郷・荒瀬郷の農民が秋田領の由利・仙北に逃散。
藩はこれをそれぞれの大肝入の責任として、高橋太郎左衛門と池田刑部左衛門を牢に入れた。
幕府の巡検使が来る前年だったこともあり、藩としては大肝入の二人を殺して「問題なんてなかった」に
するつもりだったという。
結局、釈放された二人だったが、殺されそうになったことを知った太郎左衛門は大いに憤った。
寛永十一(1634)年十一月、太郎左衛門は弟とともに江戸に行き、幕府に直訴。
十三条からなるその訴状は、知恵伊豆こと松平伊豆守によって受理された。
その結果、何と太郎左衛門と刑部左衛門は肝入に復職。
さらに太郎左衛門は後に二百石の家中に召しだされるという、異例の待遇であった。
庄内藩もおとがめなしということで、知恵伊豆の配慮により、ひとまず事件は穏便(?)に済んだのであった。
446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 08:08:42.92 ID:2is70TG2
…が、忠勝のトラブルはまだ続く。
忠勝の弟、長門守忠重が御家乗っ取りを画策したのである。
この忠重、白岩領(現寒河江市など)の領主だったのだが、これまた苛政を布いていた。
で、案の定百姓一揆が起きて、領地没収。没収後は、庄内藩の客分として暮らしていた。
客分とは言え藩主の弟である。忠重は権力を握り、遂には家老をもしのぐほどとなった。
そして忠重は「忠勝の子を廃し、自分の子を忠勝の長女に娶らせて二代目藩主の地位に就ける」という
野望を抱くのである。
忠勝・忠重の弟である了次(玄蕃)は、忠重の讒言により後に幽閉され死亡。
忠重と対立した家老の高力喜兵衛一方は、讒言を受けた忠勝の命により追放。一族縁者も多くが追放・切腹などの処分。
この忠勝に讒言した人物は喜兵衛の同志であったが、忠重に脅迫されたらしい。
同じく家老の水野内蔵助重次は追手を差し向けられたが、寺院に潜伏して命は助かった。
かくして、ライバルたちを消した忠重は野望成就へとあと一歩まで近づいた。
しかし、喜兵衛一族を追い落とした翌年の正保四(1647)年。忠勝が病死したのである。
遺言により、忠勝の子である忠当が継いだため、ここに忠重の野望は頓挫。
忠重は忠当から義絶され、後に息女縁組の不始末により改易。改易の翌年、隠棲先で何者かに
殺害されるのであった。
農民に訴えられたり(忠勝にも原因あるけど)、弟に家督狙われたりと、
そんな波乱の人生を送った、もう一人の「酒井忠勝」の話。
ちなみに、参考にした本によると、忠勝は短期だったらしく、手打ちにした人数三百人余り。
その内、自ら手にかけたのは 一 二 〇 人 から 一 四 〇 人 と伝えられてるそうな。
447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 09:00:16.68 ID:p1JMQgO9
忠勝3人目がいるなw
448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 09:14:28.17 ID:XmSH+2r3
>>446
>その内、自ら手にかけたのは
>一 二 〇 人 から 一 四 〇 人>と伝えられてるそうな。
今すぐ長可に改名しろwww
449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/17(水) 14:50:20.99 ID:8opW1zNp
これまた胸糞悪い話だな。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
あのダンスを代々に継がせておけばもっと心優しき大名になれたものを・・・
( 2011年08月17日 23:26 )
人間七七四年 | URL | -
>つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり
これってどうゆうこと?
もう一人の「酒井忠勝」は本多忠勝の孫ってこと?
( 2011年08月17日 23:45 )
人間七七四年 | URL | -
歌仙が最低でも3本作れる
( 2011年08月17日 23:58 )
人間七七四年 | URL | -
性格が「短期」って、どんな奴だw
( 2011年08月18日 00:34 )
人間七七四年 | URL | -
>2
>つまり徳川四天王酒井忠勝の孫であり
酒井忠次の間違いでしょうね。家次の父は忠次ですから。
( 2011年08月18日 01:11 )
人間七七四年 | URL | -
※3
歌仙どころか定家(もしくは小倉?)が作れるね。
しかし忠次の子孫って幕末までぱっとしない印象があるなぁ…
( 2011年08月18日 01:22 )
人間七七四年 | URL | -
個人的に超スッキリ&納得。
最上の形跡潰しまくって悪政敷いた酒井忠勝ってのが幕閣やってる方と繋がらなくてずっと混乱してたけど、同姓同名の別人だったのね。
勘違いしてたわ。
( 2011年08月18日 01:33 )
人間七七四年 | URL | -
殺人鬼だな
14万石だから小物ばかり斬ったんだろうけど
( 2011年08月18日 01:35 )
名無し | URL | -
勿論史実とは違うと断った上で
藤沢周平先生の海坂藩(庄内藩がモデル)シリーズの影響で剣豪が沢山居たイメージが・・・
( 2011年08月18日 06:20 )
人間七七四年 | URL | -
もはや、「庄内のDQN」もしくは「DQN忠勝」とでも呼ぼうか。
( 2011年08月18日 07:28 )
人間七七四年 | URL | -
酒井の面汚しだな。
( 2011年08月18日 08:16 )
人間七七四年 | URL | SFo5/nok
藩主がダメだから領民がしっかりするんですね、分かりますw
庄内藩が左衛門尉(さえもんのじょう)酒井家、
小浜藩が雅楽頭(うたのかみ)酒井家ですね。
( 2011年08月18日 08:49 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
こっちの忠勝はまだ載って無かったのか。
所々で文字・漢字間違いがあって残念。
( 2011年08月18日 10:24 )
人間七七四年 | URL | -
>4
周りに居る人間のサイクルが短期
( 2011年08月18日 10:37 )
人間七七四年 | URL | -
藤沢周平の「長門守の陰謀」かあ。
( 2011年08月19日 11:59 )
人間七七四年 | URL | -
これもあって
城下町鶴岡はともかく
酒田や庄内北部じゃ豪商本間家が
圧倒的に上様扱いなんだよね
本間様にはおよびもせぬが
せめてなりたや殿様に
ってね
( 2017年12月28日 14:38 )
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